小説

約束をする話

 訓練室を去る人間がいれば、訓練室にやってくる人間もいる。なまえの座るベンチの目の前のブースから人が去り、また人が現れたと思えばすぐにブースを去ってしまった。そして、また別の新しい人がやってくる。同じ銃手とはいえ、訓練生の名前をすべて覚えているわけではないので、正直なところ誰が入ってきて誰が去っていったのかまでは分からなかった。戦闘員ですら無いなまえにとっては猶更のことだろう。来ては去る人の姿を、なまえは飽きもせずに眺めていた。ボーダーを辞めると言ったなまえは、ボーダーを去る日にこの訓練室に立ち寄った。そうして、訓練生や正隊員たちの姿を、なまえはベンチに座ったまま眺めていた。なまえの座るベントの丁度正面のブースに入った人間のスコアを眺めながら一喜一憂してみたり、珍しく訓練室にやってきているなまえに声をかける正隊員たちと短い雑談をしたりすることでくるくると表情の変わるなまえの横顔を眺めていた。雑談が終わり、去っていく人を見送ったなまえの横顔がほんの一瞬、泣きそうなものに見えたのでつい、なまえに声をかけてしまった。

「……なまえ
「なあに?」

なまえは間延びした口調でそう、答えた。なまえのふたつのまるいまなこが、己の方を向く。少しのいたずら心が滲んでいるようななまえの表情は、先ほどまでさみしいと言っていたなまえの表情は何処かになくなってしまったようにも見えた。泣きそうに見えたのは気のせいだったのかは分からない。普段とそう変わらないなまえの表情を見ていると、自分の見たものがまぼろしだったかのように思えてしまったので、出かかっていた言葉を飲み込んだ。

「……いや、なんでもない」
「へんな弓場」

なまえはそう言って笑っていた。そうして二人して黙っていると、なまえが突然「……弓場ァ」と己の名前を呼んだ。

「なんだ」
「寂しい」
「俺にはどうもできねェよ」

なまえの表情からは寂しさなど少しも読み取れなかった。普段通りの知った表情を浮かべて、「寂しい」と言うのである。本当に寂しいと思っているのか、それとも寂しいと言いたくて言っているだけなのかはわからない。多分、寂しいとは思っているのだろう。しかしながら、深刻そうな顔をして言えばこちらが心配するとでも思っているのか、気丈に見せているだけなのかも知れない。なまえの癖に下手な気を使うなとも思うが、それは言わなかった。

「どうにもできないなら仕方ないね」

なまえは含みを持たせたようなことを言った。この場所を去るまでのこり、三十分を切ったころのことである。なまえが己の顔を真剣な顔をして見ていたので、なまえに「なんだ」と問うた。

「ダメ元で言うけどさ、一回撃ったらダメかな」
「トリガーはあるのか?」
「うん。テスト用の奴がある」
「なら空いてるところを使えばいいだろ」

なまえにそう言えば、なまえは「やった」と言ってすぐに換装して立ち上がった。空いているブースに向けて歩くなまえの後ろを追うようにして付いていく。「なまえさん撃てるの?」正隊員たちから、なまえにむけて声が掛けられた。きっと、エンジニアであるなまえしか知らない人たちなのだろう。なまえはそれに対して「わたしに任せな」と基本の構え方すら忘れていたくせに胸を張って言うものだから思わず顔をしかめてしまった。

「ブース入るのも久しぶりだ」
「あァ、行ってこい」
「一年ちょっとぶりだな、楽しみ」

なまえがハンドガンを片手にブースに入る。後ろの方で見ている己の方を振り返り、「弓場ァ」と大きな声で己の名前を呼んだ。

「ちゃんと見ててよ師匠なんだから」
「俺はお前の師匠じゃねェ」
「いいや、わたしに構え方を教えたのは弓場だから弓場は師匠だね」
「うるせェ、さっさと構えろ」

先ほど肘の話をしたばかりのせいで、肘の位置を慎重すぎるくらいに確認したなまえが的に向けてハンドガンの銃口を向ける。

「撃つよ」
「あァ」

空いた手でグリップを支え、両手でハンドガンを構えたのちに、的に向けて撃った。一発目を撃ったのちに、ハンドガンの反動を殺しながらもう一発、なまえは撃った。なまえの銃口からは二発、タ、タンと発砲音が鳴って的の中央に二つほど穴が開いた。一発目で空いた穴から数ミリずれたところに二発目が当たったのか、的の中央にはひとつだけ、やけに大きな穴が空き、スコアは最良の点数が刻まれていた。一年と少しのブランクがあるにしては十分過ぎる結果だろう。なまえは的を眺めて「当たった」と言った。

「どう?」
「……悪くねェな」
「案外いけるもんだね」

なまえの的を見た銃手が集まって、なまえに声を掛けていた。エンジニアのなまえを知っていて、元戦闘員で銃手だったことを知らない面々は、なまえの的を見て驚いたような顔をしていたが、なまえが銃手だったころのことを知っている人たちは、なまえのことを褒めているようであったし、懐かしい話に花を咲かせていた。なまえがまだまともにハンドガンを構えることすらできなかったころを知っている人間はこの場所に多くは無かったけれども、その時期のことを知っている人たちはなまえの結果を見て、なまえが初めてハンドガンを構えていた時のことを思い出したのか、「あんなに上手になって」とくちぐちに言っていた。なまえなまえで「あの頃のわたしはもういないよ」と胸を張って言っていた。暫く、人に囲まれて話していたなまえは、はじめのうちは満更でもなさそうな顔をしていたが、急に恥ずかしくなったのか、会話を切り上げるとすぐに己の手を引いてブースから外に出て元のベンチに戻ってしまった。なまえの座ったベンチの隣に、己も腰をおろした。ベンチに座ってすぐに換装を解いたなまえは、もともと着ていた私服に戻っていた。

「……楽しかった」
「良かったな」
「うん」

なまえはそう言って己の顔を見て、「……辞めたくなくなってきちゃったなあ」と遠くを見るような目をしてそう言った。彼女の視線の先にあるのは訓練室の白い天井である。「寂しいか」そう、なまえに問えば、なまえは「うん」と言った。

「ボーダーを辞めるって思った時は残りの大学生活を学生らしく過ごすんだって思ったけどさ」
「あァ」
「学生らしくってどうやって過ごせばいいかわたし、よくわからないなって」
「勉強しろ」
「学校行ってボーダー行って一日が終わりだったのに、学校行って、あと何しようって今から考えてる。彼氏が出来たりしたら変わるかな」
「出来るのか?」
「……」

なまえは黙り込んで不満そうな顔をして己を見ていた。暫く黙り込んだのちに、なまえが口を開く。

「彼氏、出来たらいいけど出来たら弓場が寂しがるから無理かも」
「寂しいなんて一言も言ってねェ」
「ボーダー辞めるって言った時の弓場ちょっと寂しそうだったよ」
「気のせいだろ」

そもそもなまえがエンジニアに転向してからというもの、なまえと本部で会う機会など殆ど無かったに等しいのだから、結局のところ、なまえがいようがいまいが己のボーダーでの生活は変わらないだろうし、そもそも、なまえとは本部よりも大学で会うことの方が多いのだから、寂しいも何もないのである。なまえにそれを告げると、「少しくらい寂しく思ってくれてもいいんじゃない?」と言い出したので呆れてしまった。「ボーダー辞めてもあんまり変わらないかもしれないけどさあ、彼氏が出来たら弓場と会えなくなるだろうしやっぱり弓場寂しくなると思うよ」となまえが胸を張って言うので額を小突いてやると、なまえは「痛い」と言って大げさに額を抑えた。

「もう終わりかあ、短かったな」

なまえが、壁掛け時計を見ながらなまえはそう言った。「訓練室に来て遊んでて思ったけどさあ、ボーダー、結構な年数居たと思うのに随分短かったなって」そう彼女はぼやいた。なまえの言葉に「あァ」と相槌を打った。

「おぼえていたいな」
「あァ」
「今日のことも、弓場たちとトリガー考えたことも、エンジニアの人に良くしてもらったことも、全部覚えていたい」
「……」
「全部覚えたままで明日を迎えたい」
「そうだな」
「もし全部覚えたまま明日を迎えられたら、ごはん連れてってよ」
「どうしてそうなる」
「わたしの送別会やってくれたっていいじゃん、師匠でしょ」
「俺はお前の師匠ではない」

なまえは言いたいことだけ言うと立ち上がった。「もう、行かなきゃ」そう言って、なまえは訓練室から外に出ようとする。そのなまえを引き留めてしまった。「……なあに」今更寂しくなったの、となまえは茶化すように言った。なまえの言葉に首を横に振ると、なまえは不満そうな顔をして己の顔を見ているのが可笑しかった。「……飯、連れてってやる」そうなまえに言えば、なまえは目を丸くして「絶対、約束したからね」と食い気味に言った。「何が食べたい」そう問えば、なまえは「弓場が思うわたしが好きそうなところ」そうなまえはそう、曖昧なことを言うだけ言って、「もう行かなきゃ」と言い残して去って行ってしまった。この場所に取り残されたのは己だけである。この約束を思い出せなくなりそうなのはなまえの方だというのに、なまえは己にそう言って去って行ってしまった。なまえの記憶がどこまで残るかは分からないが、なまえがもし約束のことを覚えているのであれば、その時にまたどこに行くかを考えたら良いだろう。
2020-10-18