小説

忘れる話

「珍しいな」
「弓場ァ」

訓練室の後方に設置された休憩用のベンチに座ってひとり、缶コーヒーを片手に、訓練室で銃を構える訓練生の背中を真剣な顔で見ている女に声をかけた。女は視線を訓練生の背中から、ベンチの傍らに立つ己の方へと移し、「久しぶりィ」と間延びした口調でそう話しかけてきた。一年と少し前に戦闘員からエンジニアに転向したなまえが、戦闘員の集まる訓練室に居ることは珍しい。戦闘員になんらかの用事があったとしても、自分から向かうのではなく自分の居室に呼びつけることの多いなまえが、自分の足を動かしてエンジニアのいる居室から遠く離れた訓練室にくることは、めったに無い。たとえ呼びつけられたとしても行くことを渋るなまえが、自分から訓練室にやってきて休憩用のベンチの上に一人座っていたことに驚いてしまったので彼女に話しかけると、似たようなことを別の人からも言われたのか、むっとしたような顔をして、「わたしがここにいるの、そんなに変?」と言った。「あァ」それに首肯すると、なまえは「弓場もそう思う?わたしもそう思うけど……」と言って黙ってしまった。

「どうしたんだ」

誰かに用事でもあるのか、と問えばなまえは首を横に振った。「ううん、特に誰かに用事があってきたわけじゃないよ」そう、なまえは答えた。特別な用事のないなまえがこの場所に居ることが考えられなかった。それが表情に出ていたのか、なまえは「弓場もそう言う顔するんだ」と言った。「来てくれって言っても来ねェ奴がここに居りゃな」と言えば、なまえは「言われたら納得するしかないなあ」と言ってカラカラと笑った。

「弓場は訓練にでも来たの?」

なまえは己に向けて、そう問うた。「あァ」もう今日は終わりだがな、と返せば、なまえは「お疲れ様ァ」と言って、持っていた缶コーヒーをこちらに向けて乾杯のしぐさをした後に、コーヒーに口をつけていた(己は何も持っていなかったので乾杯のそぶりをただ見ることしかできなかった)。訓練室のすぐそばにある自動販売機で売られている飲み物の中で、一番まずいと戦闘員のなかで評判の、コーヒーを飲むなまえを見れば、なまえは「ああ、これ」とやけに派手なパッケージカラーの缶を己に向けて見せてきた。

「もう飲むことはないだろうなって思うから、飲んどこうかなって」

そうなまえは言った。「やっと自動販売機からなくなるのか?」そう、缶コーヒーについて問えば、なまえは「さあ?」と言った。「さすがになくならないんじゃないかな」エンジニアの中ではまずいのが逆に癖になるってハナシだし、なんだかんだでよく飲まれてるよね、コレとなまえはそう言うのであった。己の方を向いていたなまえの視線は再び、元の場所へと戻る。なまえの視線を追った先には、ハンドガンを構える訓練生の背中があった。なまえの視線が注がれている訓練生は、特別とびぬけて技術のある訓練生と言うわけではなかった。銃手になりたての、姿勢の確認を一つずつ行ってハンドガンを構えるという、まだ不慣れなハンドガンの構え方をしていた。的に向かって、訓練生が、引き金を引く。パン、と弾けるような発砲音がしたあとに、的の中央からやや右寄りの場所に穴がひとつ、空いているのが見えた。もう一度パン、という音が鳴って、的にもう一つ穴が開いた。穴が空いた場所は中央から右寄り、一つ目の穴から数センチ離れたところであった。なまえの座っているベンチからは、訓練生の撃った的は、訓練生の背に隠れて見えないのだろう。なまえの視線は訓練生の背中から、近くに設置された採点機能のついたモニターの方へと注がれていた。新しく加算された数字が最良の点数でないことを知ったなまえは「うーん、惜しい」と溢した。己の目から見ると、何ら特別なものなど無い訓練生だった。なまえはあの訓練生の白い背中を、己が来る前からぼうっと見つめていたのだろうか。なまえは訓練生の背中を眺めながら口を開いた。「ねえ、弓場ァ」間延びした口調でそう、己の名前を呼ぶのでなまえの方を向いた。「何だァ」なまえの視線は相変わらず、訓練生に向けられたままで、己の方を少しも見てはいなかった。

「わたしもああいうときがあったのかなあ」
「……あァ、あったな」

今から数年以上も前、なまえがまだ戦闘員だった頃のことである。なまえが銃手としてハンドガンを構えはじめたころのことを思い出してそう、なまえに答えた。なまえが戦闘員を辞めるころには、戦闘員をやめるのはもったいないと残念がられる程にはよく出来た銃手にはなっていたが、最初のころは、構え方すらろくにできていないくらいにはひどいものだったように思う。教えを請われてなどいないのに、あまりのひどさにこちら側から声をかけてしまうほどにはひどいものだった。「お前の方が酷かったがな」そうなまえに返せば、なまえは己の顔をみてなまえは「そっか」と言った。「随分ブランクあるけど、訓練生になりたてのときよりは今の方がマシだと思う」そうなまえは言って、コーヒーを持っていない方の手で、ハンドガンを構えるようなしぐさをして見せた。「バーン」そう、発砲音の代わりになまえは自分の口でそう言って、銃を撃つときの引き金を引く動きを己に向けてやって見せた。なまえの姿勢があまりきれいなものでなかったので自然と眉間にしわがよるのを感じる。

「肘をもう少し上げろ」
「うわあ、ダメ出し入った」

お前の悪い癖だな、と言えばなまえは自分の肘を注視したのちに、もう一度ハンドガンを構えるようなしぐさをした。今度は肘も下がっておらず、手本のような姿勢になっていたので「そうだ」と言えばなまえは「こう、ね」と言ったのちに腕をおろした。基本のキの字も忘れてるや、となまえは笑った。どこか懐かしいものを思い出すように、「ハンドガンにするか突撃銃にするかで悩んでた時期あったじゃん」そうなまえは口を開いた。

「あァ」
「みんなに相談に乗ってもらって結局ハンドガンにしたやつ」
「あったなァ、そんなこと」
「ここにきたら懐かしくなった」

結局わたしは戦闘員やめちゃったけど、となまえは言った。目の前の訓練生が銃を構えて引き金を引くのを眺める。もう少し重心が左側だろうと思ってその背中を眺めていた。なまえの視線は白い訓練生の背中に注がれたままであった。なまえが、目の前の訓練生の背中を見ながら何を思っているのか。懐かしい過去を想起しているのか、それとも、全く関係のないことを考えているのかまではさすがに、わからなかった。「弓場ァ」訓練生が訓練を終えてブースから出たあと、無人になった訓練施設を眺めながら、なまえが思い出したように口を開いた。

「なんだ」
「わたし、辞めるんだよ」
「何を」
「ボーダー」

なまえはそう、言った。急になまえからそう言われたことに驚いてしまったのが表情に出ていたか、なまえは「すごいびっくりしてるね」と可笑しそうな顔をしてそう言った。「急だからな」そうなまえに返せば、なまえは「しかも今日付けでね、おしまい」と言った。仕事の引継ぎを終えて、最後の一日を自由に過ごす時間をもらったので本部内を歩いていたときに、自然と足がこちらに向いてしまったのだという。「最後だと思ったら自然とここに来ちゃった」そうなまえは言った。

「今日なのか」
「今日なの」

今日の夕勤の定時でおしまい、となまえは言った。そのあとに退職の手続きを含めた後処理が残っているのだとなまえは言った。時計を見れば、なまえの言う定時の時間まで、もうあと一時間も無かった。「……最後に弓場に会えてよかった」なまえは思い出したようにそう言った。「最後?」そう問えば、なまえは「ほら、わたし仕事の都合で機密とか持ってるから、記憶がね」そう言った。

「消えるのか」
「うん」
「そうか」
「どこまで消えるかはわからないけど」

わたしの記憶が無くなったら、ボーダーに入ってから今までのことも全部思い出せなくなっちゃうのかな、となまえはひとりごちた。「ハンドガンにするか悩んだのも、全部」もしかしたら思い出せなくなってしまうかもしれないね、なまえはそう言って、黙り込んでしまった。なまえの記憶がどこまで残ってどこから消えてしまうのか、己には分からないので何も言えなかった。なまえの言う通り、なまえがボーダーにいた時の記憶が全てなくなってしまうかもしれないし、機密だけが封印されてしまうのかもしれない。しかしながらそれを判断する立場に己は居ないので、なまえの処遇がどうなるかは、わからないのである。

「弓場は記憶処理でどこまで消えるか知ってる?」

そうなまえは己に問うた。「さあな」なまえの問いに答えると、なまえは「隊長でも知らないものなのか」とがっかりしたような顔をして己の顔を見ていた。「決めるのは上だ、お前が俺の隊員ならまだしも、隊員でもない奴のことは余計わからねえよ」そうなまえに言えば、なまえは「そっかあ」と言って大袈裟にため息をついた。

「どこまで消えちゃうのかなって思ったら寂しくなっちゃった」

昨日まではもうこれでボーダーの仕事も終わりなのか、明日から何しようかなって考えてたんだけどね、となまえは言った。肩に今まで載せられた重圧がなくなることの解放感でいっぱいだったのに、いざここを離れるとなった途端に、自分の記憶の処遇のことを思い出したのだという。今まで自分が記憶処理する側だったのに、される側になると思うとなんだか変な感じがするよ、となまえは言った。

「トリガーで悩んだことも、エンジニア転向に悩んだことも思い出せなくなるのも嫌だけど、ボーダーで知り合った人のこと、なにも思い出せなくなっちゃうのかなって」

だから、今日は最後に本部をしっかり見て回って置こうと思って、となまえはぼやいた。「それも全部消えるかもしれねェんだろ」そうなまえに言えば、なまえは「わからないけど、そうかもしれない」と言った。「弓場に最後に会ったのも思い出せなくなっちゃうのかな」やだなあ、となまえはため息を吐いた。

「……ボーダーを離れたからといって人間関係が終わるとは限らねェだろ」
「大学でもわたしと喋ってくれる?」
「あァ」
「ほんと?適当な約束してない?」
「してねェよ」

そう言えば、なまえは「そっか」と言って、コーヒーに口をつけた。「やっぱりこれ、おいしくないね」なまえはそう言って己の方を向いた。「……弓場も飲む?奢るけど」なまえはそう言った。「いらねェ」そうなまえに言えば、なまえは「つまんないなあ、嫌そうな顔をする弓場が見たかったのに」と言うので額を小突いてやった。
2020-10-17