小説

寂しい話

 受験を控えた高校三年生は、年明けの授業から午前授業に切り替わった。午前中に学校で授業を受けて、午後は学校に残りたい人だけが残り、特に用事がない生徒たちはすぐに家に帰ることになる。己は、授業の後で学校に残る予定もなかったので、ショートホームルームが終わった後、日直の仕事を適当にやって帰路についた。一緒に日直をやっていたクラスメイトの女子生徒と仕事を分担して、相手の方が戸締りをすると言ったので己は日誌を書いて職員室に持って行った。日直の仕事を終えて帰路につく。昼休みのせいかやけに騒がしい廊下を歩いて下駄箱に向かう。玄関口から見える外は、まだ明るい。部活を終えて帰宅するときは常に外は真っ暗で、街灯の青白い明かりを眺めながら歩いて帰ることが常であったが、正午を回ったばかりのこの時間帯では、未だまぶしいくらいに外は明るかった。日頃見ていた青白い光をともす街灯も、今は青白い光の影もかたちもなくしずかになっている。下駄箱に上履きを片づけて、外履きの靴を持って玄関口に出ると、昼ごはんの弁当を買いに行ったり、学食に向かおうとするする生徒たちの喧騒が遠くに聞こえた。三年生の下校のピークはとうに通り過ぎたせいか、下駄箱はしんと静まり返り、同じ校内でもここだけは校内から切り離されたような感覚さえあった。下駄箱で聞く学内の喧騒は、どこか寂しい。今までならばあの喧騒の中に自分たちがいたはずなのに、この学校で、三年の終わりに近づいてくると、喧騒の外の人間になってしまうのだということが余計に寂しくさせるのかもしれない。今頃、後輩たちは昼休みを各々の昼休みを思い思いに過ごしているのかもしれないと思いながら、外履きに足を入れる。自然と体育館の方へ向かおうとする足に、体育館に行かないと言うことを意識させるにはまだ時間がかかりそうだった。足を止めて初めて、もう部活はないのだということを思い出すほどなのだから、先はまだ長い。
 春高のおわり、最後の試合が終わったあとで己を含む三年生は部活を引退した。同じ高校三年生の中であれば、今まで部活を続けていることの方が珍しいのだろうけれども、そのような感覚はあまり持ち合わせていなかった。バレー部のレギュラーとして活躍していた同級生たちは皆、春高まで残ることを決めて部活に出ていたし、試合の会場で会った顔見知りの同級生らも皆、春高まで残っていたのだから、余計にそう思っていただけなのかもしれない。春高が終わって、部活の送り出し会まで終わった後であるのにも関わらず、己の足は自然と体育館のほうに向かおうとしてしまう。高校に入学してから三年間、毎日のように通った体育館に向かう癖は、一日二日程度では抜けやしないのかもしれない。部活はもう引退した後なのだということを今更のように思い出し、部活の荷物を持ってきていないことに気づいて、自宅へ帰ろうと体育館のほうではなく、校門の方へと足を向ける。未だ明るい外に違和感を覚えながら、一歩、玄関口から踏み出した。玄関口を通り抜けると、つめたい北風が吹き抜けた。マフラーの隙間を通って入ってくるつめたい風に肩を窄め、ハァと一息着くと、白い息が口から零れる。春高が終わり、己らの春は終わったというけれども、こうして外の寒さが身に染みるたびに冬の終わりはまだずっと遠くにあるように思う。

「あれえ、黒尾くんだ」

そう声をかけられた方を見れば、先ほどまで一緒に日直の仕事をしていたなまえが丸い目をさらに丸くして己の顔を見ていた。己の姿を、物珍しそうなものを見るような目でマジマジと見つめるなまえに「アラお帰りですか、なまえチャン」と言えばなまえは「うん、今日は下校」と答えた。なまえが靴箱から彼女が何時も履いているだろうローファーを引っ張り出すのを眺めながら、「珍しいな」となまえに言えば、なまえは「そうかも」と答えた。なまえは午前授業に切り替わる前から、放課後遅くまで残って勉強していることが多く、それは午前授業に切り替わっても変わらないようであった。だから、なまえは遅くまで学校に居ることが多く、教室の戸締りを日直でなくともやっていることが多かった。だから、今日の戸締りもなまえがやると言うのでてっきりなまえが残るのだと思ったけれども今日は違ったらしい。なまえが今日早く帰るのであれば、自分でやった方が良かったのかもしれないと思った。「悪い」そうなまえに言うと、なまえはなんだかよく分かってないような顔をして己の顔を見ていた。

「戸締り俺がやった方が良かったカモって思った」
「ううん、大丈夫だよ。急ぎで帰らないといけない用事とかじゃないから」

今日は身が入らないから勉強するのを諦めただけ、戸締りの話した時まではまだやる気だったんだよ、となまえは言った。「黒尾くんも早いの珍しいね」黒尾くんって部活があるから帰りが凄く遅いでしょ、となまえは言った。「なまえチャンと同じくらいかな」なまえが放課後残って勉強をした後に帰る時間と、己らが部活をしたあとで帰る時間がちょうど同じくらいだったので、なまえにそう言えば「たしかに、帰りたまに会うもんね」となまえは答えた。

「黒尾くんは今日部活休みなの?」

なまえのふたつのまるいまなこが、己の顔を見上げている。なまえの色の薄い眼球に、己の間抜けな顔が映っていた。なまえが己の顔を興味深そうなものを見る目で己を見上げるのを見ながら、「いいや、引退」となまえに答えた。なまえは目を丸くして「引退!」と言った。なまえがあまりにも驚いたように言うので、「俺ももう三年生ですよ」と言えば、なまえは「黒尾くんが部活引退ってあんまりしっくりこない」と言った。「だって今日もこれから体育館に行きそうな感じするもん」そう、なまえは言った。「俺からしてみればなまえチャンはこれから居残りしてそうですけどね」そう言えば、なまえは「黒尾くんからみたらそうなんだ」と言った。履き古したローファーに足を入れたなまえが、己の立つ玄関口の前に歩いてきた。吹き抜ける北風に肩を窄めて「さむい」となまえが言う。なまえは両手をすり合わせながら、己の姿を見て、「黒尾くん寒くないの」と問うた。そう言うなまえは、制服の上からコートまでしっかり着て、マフラーに手袋とすっかり冬支度が整えられていた。ここまで着込んでいれば寒くないだろうと思うのであるが、なまえにとってはそれでもまだ寒いらしく風が吹くたびに、北風の吹いてきた方向を忌々しい目で見ていた。なまえに指摘されてはじめて、制服の冬服のブレザーにマフラーを巻いているだけという恰好は、冬にしては少し寒いかもしれないなと思う。何時もこの恰好で登校していたせいであまり意識したことは無かったけれども、全く寒くないというわけではない。

「でも黒尾くんついこの間まで半袖半ズボンでバレーしてたよね」
「アップしなきゃ寒い」
「今は」
「ちょっと寒い」
「……マフラー一枚じゃ寒いよね」

なまえはそう言って己の恰好を上から下まで見た後に呆れたような顔をしていた。「黒尾くん見てると寒くなるから帰ろ」そう、なまえは己に向けて失礼なことを言った。特に、なまえと帰る約束をしていたというわけではなかったけれど、なまえとは高校の最寄り駅までは帰る方向が同じなので、自然と同じ方向に向かうこととなった。なまえの歩幅に合わせて、彼女の隣を歩く。まだ明るい時間に歩く帰路には違和感があった。同じ道を毎日歩いていたのにも関わらず、しらない道を歩いているような感覚があった。なまえは己の顔を見て、「変な感じするよね」と口を開いた。なまえの視線の先を辿ると、彼女の視線は、電信柱に取り付けられた街灯のほうを向いていた。まだ、電灯が灯る気配が微塵も感じられない、しんと静かにそこにあるだけの街灯である。

「明るいうちに帰るのって変な感じしない?」

そうなまえは己に言った。明るいうちに家に帰るということが殆ど無かったせいで、この真昼間の中、帰路につくということがに違和感があるような気さえしていたので「たしかに」と答えた。なまえは己の恰好を上から下まで眺めたのちに、「そもそも黒尾くんが制服で家に帰ってるっていうのにも違和感がある」と続けて言った。部活帰りの時はジャージのまま帰るのが常になっていたことを思い出して「ああ」と相槌を打った。自分の思っていた違和感は制服で家に帰っているということから来るものも有ったのかもしれない。あまりにもなまえが訝しげな顔をして己を見ているので「俺、なんか変?」と彼女に問うた。なまえは「変じゃないんだけど、教室だと黒尾くんの制服に違和感ないのに、下校の時の黒尾くんの制服には違和感があって変な感じがする」と答えた。黒尾くんはずっとバレーしてるような感じがするし、今日もバレーしそうだと思ったし、卒業しても体育館でバレーしてそうな感じする、となまえが言うので「卒業したらさすがに体育館に行かねえわ」と言えばなまえは笑っていた。学校生活のなかで、教室で過ごす時間の方がどう考えても長いのに、なまえにとって己は制服のイメージではなくジャージのイメージだというのが、なまえにとっての己という人間が、バレーと強く結びついているように思われているようで、なんだか悪くないなと思った。

「引退かあ」

なまえはそう、言った。引退ということばを今更知った人のようにそう言うので、「そ、引退」と返せば、なまえは「黒尾くんが引退……」と反芻するように言った。引退している己よりもその引退と言う言葉をかみしめているようにも見えた。なまえは「黒尾くんが引退ってなんかちょっと寂しい感じするね」とひとりごちた。「黒尾くんがバレーもうやらないのがなんか寂しい」そうなまえは言った。「高校卒業してからもバレー続けるの?」となまえが問うので、なまえに「ンー」と適当な相槌を打った。バレーを続けるにしろ、続けないにしろ、バレーにかかわることをしたいとは思っていた。なまえはそれを否定ととらえたのか、肯定ととらえたのかは分からないが、己のどちらともつかない答えを聞いて、それ以上を問うことはしなかった。触れてはいけないと思われたのかもしれないけれども、今の己にはなまえの問いに対する答えを持ち合わせていなかったので、答えることが出来なかった。
 話題は己の部活引退の話から移り、なまえの話す最近食べたおやつの話をぼんやりと聞いているうちに、最寄り駅にはすぐに着いた。改札を通り抜けて、「黒尾くんまた明日ね」となまえは手を振って、己の帰る方向とは逆方向のホームへと姿を消してしまった。なまえと別れた後、ほんの数日前の自分のことを思い出していた。春高の体育館、あの舞台で行われた烏野との因縁の対決、試合のあとで幼馴染が己に向けて言った言葉、三年間一緒に走り抜けた友人ら──そこから思い出は二年生の頃へとさかのぼり、さらに一年生の時の、入部したての時のこと──音駒高校でのバレーのはじまりのことである──までさかのぼる。いろいろなことがあったと思い返しているうちに胸の中にこみあげてくるものがあった。終わってしまったけれど、まだ終わってほしくないと思う自分がたしかに、そこには居た。自分の日常生活の中から部活というものが消えてしまったのであるが、未だ自分の足は体育館に向かおうとするし、生活の中に染み付いた部活というものはなかなか消えてはくれない。部活を引退した後の己にはもう、春高で行われる試合に想いを馳せながら一日一日を過ごすことはもう、無い。あのメンバーで行える試合はもう、すべて終わってしまった。最後の試合は、いい試合が出来たと心の底からそう思うのであるが、敢えて何か言うのであれば試合に勝ちたかったと思う。終わってしまったという感情と、終わらないでほしかったと思う感情と、まだやりたいという気持ちと、やり切ったという気持ちが複雑に絡まって胸の中に燻っている。駅のホームで電車を待ちながら、この感情の名前をぼんやりと考えてみたけれど、これらすべてをまとめてさみしいと言ってよいのかまでは、よく分からなかった。
2020-10-11