小説

消えた話

 水色の、澄んだ空が遠くまで続いている。鱗雲が、青天井にうすく広がるさまが、穏やかな秋晴れの日だった。にぎやかだった夏のことを忘れはじめ、もう数か月と経たないうちにやってくるだろう冬の足音が聞こえ始めてきたころ、みょうじなまえという女の訃報はしずかに伝えられた。みょうじなまえの同級生の口から、一つ学年が下の生徒へと伝わり、さらにその下の学年の生徒へと、彼女の死は緩やかに伝播していった。ひとからひとへ、噂話のひとつとして彼女の死はひっそりと囁かれていた。みょうじという呪術師の家系に生まれた二人きょうだいのうちの姉の方、みょうじと言えば名家として呪術師の中では名を馳せているものであるが、なまえ先輩は彼女自身のことを「優秀ではない」と言い、なまえ先輩はよく「わたしは諦められてるし、家のことはもう下に任せてるよ」と言って家のすべてを彼女のきょうだいに任せているようなことを言っていた。なまえ先輩はそうは言うけれど、彼女のきょうだいに抜きんでた才能があっただけの話で、彼女も決して何もできないというわけではなかったし、己が知る限り、なまえ先輩もまた、呪術師として生きていくことができるほどには強い人だったと思う。
 「三年にみょうじっているだろ、なまえ先輩の方。なまえ先輩が消えたらしい」なまえ先輩の訃報は、禪院先輩の口から己らに告げられた。もう、噂で聞いてるかもしれないけどな、と禪院先輩は続けて言った。「はい」そう言えば、禪院先輩は、「あの人がみょうじじゃ、仕方ないけどな」と呆れたような顔をして言っていた。彼女の口ぶりにはさいごくらい穏やかに居させてやってくれという祈りのようなものが見て取れる。なまえ先輩の死は突然だった。みょうじという呪術師の名家の子、二人いる子供のうち、優秀ではないと言われていた片方の子であれ、彼女の死がもたらした影響はそれなりにあったらしい。「本当だったんですか」と禪院先輩に言えば、「やっぱりなまえ先輩の話は噂になるよな」と彼女は呆れたような顔をして言っていた。なまえ先輩の死を告げられた一年の三人のうち、なまえ先輩と接点があったのは己だけだったせいか、虎杖も釘崎も彼女の名前を反芻するだけであった。「この間の任務から帰ってこないんだと」禪院先輩はそう、己に向けて言った。「あの人、死んだんですか」と口に出すのは、憚られた。しかしながら、なまえ先輩が死んだという事実だけが、まるで知らない誰かが死んでしまったことを知った時のように脳みその中をめぐっていた。なまえ先輩という顔見知りのおんな、ひとりの呪術師の死というものに関して思ったのは、ただ、事実としてのなまえ先輩の死があったというだけのことであった。そうして、彼女の死のことを反芻しているうちに、なまえ先輩がどんな顔をして、どんな声をして己に向けて話しかけていたのかということをぼんやりと思い出した後にはじめて、あの人の姿を見ることはもう二度とないのだということを思い知った。それと同時に、肉体の感覚が伴い始めて自分の心の中にあった人の死という、ただ事実だけがある状態に感覚がまとわりつくようになった。みょうじなまえというひとりの女が死んでしまったのだという事実が、乾いたタオルが水を吸うかのように、心にしみ込んでゆく。なまえ先輩というひとりの女の死が、己の心のど真ん中に大きな水たまりをつくってゆくようにじわじわとした不愉快さが体を蝕むように広がっていった。手の先から足の先に力が入らず、手先と背に、ひんやりとした冷たい感覚が下ってゆくのを感じる。思わず自分の指先を握ってしまったのであるが、冷えているように思ったのは気のせいで、左手に触れる右手の指先は少しも冷えてなどいなかった。

「……本当に死んだんですか」

そう、禪院先輩に問えば、先輩は首を横に振った。

「死んだことになってる」

 今から二週間ほど前、なまえ先輩に会ったときに、なまえ先輩は西東京の奥地、山のつらなる方に、呪霊を祓いに出かけるのだという話をしていた。それは、己がなまえ先輩と最期に会った日のことでもあった。今日のようなやけにきれいに晴れた、過ごしやすい秋空の、夏のことをもう誰もが忘れてしまいそうになるほどには涼しく過ごしやすくなった、鱗雲が空高くに浮かぶ日のことであった。なまえ先輩は「伏黒くん」と己の苗字を呼んだ。呪術師の世界は常に人手が足りない。学生であるとはいえ、なまえ先輩も、己も、依頼をうけて呪霊を祓いに出かけることは、多い。久しぶりに見たなまえ先輩は、目の下が青く少しつかれているように見えた。「久しぶりですね」そう、なまえ先輩に言えば、なまえ先輩は、少し疲れた顔で笑ったのちに「久しぶりだねえ、学校楽しい?」と己に向けて問うた。「別に、いつも通りですよ」変わりません、と言えばなまえ先輩は「それは良いことだね」とカラカラと笑っていた。「なまえ先輩は疲れてますね」そう彼女に言えば、なまえ先輩は困ったような顔をして「今日はちょっと朝が早かったの」と言っていた。

「……もう随分涼しくなったでしょ、制服もそろそろ冬服にしないと風邪ひくかな」
「どうですかね」

伏黒はどう思う、そうなまえ先輩は黒い七分袖の制服を己に見せて口を開いた。「夏服……?」冬に着ている服とそう変りないように見えるなまえ先輩の制服を見ていると、なまえ先輩は「夏服、もう少し袖を短くしても良い気がするんだけどね、袖がちょっと無いと落ち着かなくて」と言った。なまえ先輩を横目に見ながら、スマートフォンの天気予報を眺める。昨日よりも六度以上高い気温の数字に思わず顔をしかめてしまった。明日は夏の暖かさがまた戻ってくるような一日になりそうだと書かれたコメントを見ながら、なまえ先輩に「明日は暑くなるみたいですよ」と伝えると、なまえ先輩は「じゃあ、明日は夏服でいいや」と言った。「明後日から気温は下がるみたいですね」と伝えればなまえ先輩は「じゃあ、今回のが終わったら夏服をクリーニングに出してもよさそうだね」と冗談めかして笑って言っていたのであるが、なまえ先輩の言った”今回の終わり”というものは、呪霊を祓う任務の終わりではなく、彼女の”生のおわり”になってしまった。彼女の寮の自室のクローゼットには、もう一生着られる機会のないだろう袖の長い冬服が、着られることをまってじっと待っているのかもしれないと、もう二度と着られないだろうなまえ先輩の制服のことを考えていた。呪術師の死は、決して珍しいものではない。そもそも、人の死というものは、いつも突然で、己らが自らの死の予兆を知ることもできなければ、当然他人の死の予兆など知る由もないので、何も特別、呪術師にたいして死が突然やってくるというものではない。今回、なまえ先輩が担当することになった呪霊が、報告のあった通りの等級のものだったのかもわからなければ(実際に任務に行った時に、報告があった等級よりもずっと等級の高い呪霊に当たることも無いとは言えないのである)、なまえ先輩がその日に彼女らしくもないミスをしてしまったのかも知れない。いや、それでもなまえ先輩が死ぬなんて、と考えてから、考えるのをやめた。なまえ先輩は、すでに死んでいるのである。──正しくは、死んだことになっている、なのかもしれないが……

「……正しくは、行方不明になったんだよ」

禪院先輩は、あたりを見回して人がいないことを確認したのちに、続けてそう言った。「行方不明?」釘崎が、禪院先輩の言葉を反芻するように言った。「呪霊を祓ったことまでは確認出来てるらしいが、なまえ先輩が戻らない」彼女は、遠くを見つめるような顔をしてそう言った。禪院先輩の目にうつるものが、何なのだろうということを少しだけ考えて、考えるのをやめた。彼らの出自、家柄からくる、彼女らにまとわりつくそれらについて素人が考えたところで、彼らのことは誰にも分からないのである。呪霊討伐を命じられたなまえ先輩は、西東京の山奥で消滅してしまった。呪霊を討伐したあとでなまえ先輩が消えてしまったのか、それとも呪霊とともになまえ先輩が消滅してしまったのかはわからない。帳があけた後になったのにも関わらず、一向に戻らないなまえ先輩を探しに行った補助監督が見たものが、なまえ先輩の術式残穢と、呪霊の消滅だけだったのである。すっかり姿を消してしまったなまえ先輩を、山じゅう捜索したけれども彼女は結局見つからなかった。なまえ先輩が失踪してから二週間近く、捜査は続けられているが、もし山の中で見つかったとしてももう、生きている保証はどこにもない。

「ありがとうございます、禪院先輩」

そう、禪院先輩に伝えると、禪院先輩は去って行ってしまった。残されたのは一年生の三人だけである。「なまえ先輩って誰?」そう、釘崎が己に向けて問うた。「……みょうじなまえ先輩、三年の先輩」もう死んだらしい、と言えば釘崎は「聞いてたわよ」と言って己の顔を見ていた。虎杖は己の顔を横目で見たあとに、前を向いて黙り込んでしまった。三人それぞれが黙り込んで、沈黙が支配する。死んだのかどうかすらもわからない、死んだことになってしまったなまえ先輩のことをほんの少しだけ考える。「もう、随分涼しくなったでしょう」そう、なまえ先輩が言った時のことを思い出したときに、冷たい風が吹いた。冬の足音がほんの少しだけ聞こえるような、冷たい風であった。釘崎が夏服の袖口を眺めながら口を開いた。「……冷えるわね、冬服はまだかしら」その言葉に、「……ああ」と答えることしか出来なかった。
2020-10-03