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 応援の楽器の音も、人の歓声も、すべてがこの試合を盛り上げるのには十分すぎるほどであった。黄色い声が己の名前を呼んだ。試合のたびにもう何度も聞いた、歓声の中にある自分の名前に、安堵した。それは、己がこの場所、バレーボールの試合の会場、体育館のコートの中に立っているのだと自覚するには十分すぎるものであった。人の声、楽器の音、会場の賑わいが音の洪水となってあふれかえるこの場所の中央とも言えるコートの中で、ボールを持つ。主審の笛の音がピッと鳴った瞬間、応援の声、楽器の音、それらでいっぱいになっていた音の洪水はいきなり引いて、しんと静まり返った。一、二、三……、六、七、八。サーブを打つまでの、八秒間。この八秒間の後で、次の一点のやりとりが始まる。バレーボールのはじまりのこの瞬間が好きだった。「……」高く上げたボールに右手が触れる。ボールは自分の望んだ方向に向かって、飛んで行った。ネットを通り越して、相手のエンドラインの際にボールは落ちた。主審のインのサインに、客席から歓声がわっと上がったのが耳に届く。己の名前を呼ぶ観客の声が、拍子の音が、それらすべてが自分の気持ちを鼓舞させていた。チームメイトの称賛の声、ハイタッチを返して再びエンドラインの外へと出た。電光掲示板に表示された得点板の自分たちのチームに、一点が加算されるのを見る。サーブを打つのは二度目だった。ボールを持ち、一呼吸置く。フーッ……とたっぷり息を吐いたときに、肩に入っていた力が抜けた。思ったよりも随分と緊張していたのだろうか、肩が随分張っているような気がする。バレーボールの試合に出るのは、随分久方ぶりのことなのだから、それは仕方がないことなのかもしれない。北さんやったらこういう時も緊張せえへんのかもしれんけど、とかつての主将のことを思い浮かべて、高校生の頃を懐かしく思った。それと同時に、高校二年生の頃に惜敗した烏野と、高校三年生になった年のインターハイで再びぶつかった日にリベンジを果たしたときのこと、あの高揚した試合のことが記憶の底からよみがえってきた。己はあまり、過去を思い返すことをしないタチだと思っていたけれども、今日はよく昔のことを思い出す日らしい。よみがえってくるものは、今まで経験した絶好調なときの試合のことばかりで、今日の試合も調子良くプレー出来るだろうという根拠の無い自信が心の底から湧いてくる。目の前のボールに意識を集中させる。再び鳴る主審の笛の音、しんと静まり返る会場の歓声と、吹奏楽の演奏、それから、応援の拍子。笛が鳴ってからの八秒間は、この会場のすべてが自分の力が最も発揮できる状態に整えられているような気がしてならなかった。この、すべてが自分のためにあるといっても過言ではないだろう、なによりも贅沢な八秒間のことが、好きだった。たっぷり数を数えて八秒、二度目のサーブを打った。ネットを飛び越えセンターラインを通り過ぎ、相手のサイドラインの際にボールはうつくしい軌道を描いて落ちていったが、上手く拾われてしまった。相手の客席から歓声が上がる。サーブで得点が決まらなかったことをほんの少しだけ残念に思うが、そう思っている余裕なぞどこにもなかった。こうしている間にもすぐに、相手の攻撃がやって来る。相手から、ネット際にねじ込まれるように押し込まれてきたボールを、セッターが苦しい体勢で上げた。上げられたボールを拾いに走る。ボールを丁寧に上げてやれば、チームメイトのスパイカーが相手のブロックを破るようにボールを打ち込んだ。客席から上がる歓声、応援の拍子、そして叫ばれるチームの名前。そうして、加算されるもう一点。客席の応援も、アナウンスの声も、今はすべて、今は自分たちの味方をしているように思えて仕方がなかった。自分たちのゲームのために丁寧に整えられたようにさえ錯覚してしまいそうな環境のなかで好きなバレーボールのプレーが出来ることは、何よりも贅沢だと思う。主審の笛が鳴る。笛が鳴った後のこの、八秒をたっぷり使って、もう一度己はサーブを打つ。右手に打たれたボールは、重い音を立てて相手のコートに向かって飛んでゆく。己はそのボールが描く軌道を見ながら、次の攻撃に備えて──

「治、起きて」
「……んん、朝か?」
「寝ぼけとる?」

目を開けたときに入ってきた光量に思わず目を細めてしまった。アイマスクの代わりに目元だけを隠すように置いていた帽子は取り払われてしまった。おにぎり屋のエプロンを着たなまえが、呆れたような顔をして己の顔を見たのちに、目を細めて笑っているのがぼんやりと見える。「なん……」己を起こしただろうなまえにそう問えば、なまえは己に向けて「やっと起きた。おはよう」と言った。「ん……」まだ半分頭が寝ている状態で、身体を起こせばそこは己のよく知る自宅のベッドの上ではなく、職場のバックヤードのソファの上だった。昼休憩の時間、昼ご飯を食べた後に眠くなってしまってそのまま眠ってしまったまではぼんやりと覚えているのであるが、ここまで爆睡してしまうとは思わずに「ヤバイ」と言って慌てて起き上がると、なまえが「びっくりしたわ、もう」と目を丸くして己の顔を見ていた。

「じゃあ、今度はわたしが昼休憩もらうで」
「すまん」
「ええよ」

なまえはハンガーにぶら下げたままのエプロンを己に渡して、バックヤードに引っ込みながら自分のエプロンを脱いでいた。なまえと入れ替わるように、己はエプロンを着て大急ぎで表に出る。店の壁に掛けられている時計を見ると、本来予定していた昼の休憩時間を二時間ほど通り越して、時刻はすでに十五時を回っていた。昼のランチタイムを通り過ぎ、夕食の時間にはまだ早すぎるこの時間は、一日の中でもお客さんが最も少ない時間になる。そのせいか、お店のカウンター席やテーブル席にはお客さんの姿はひとりもいなかった。昼の一番忙しい時間に、なまえ一人で店を回させてしまったことを申し訳なく思い、バックヤードに引っ込んでしまったなまえに「すまん」と声をかけたが、なまえはまかないのおにぎりを頬張りながら「ええよ、気持ちよさそうに寝とったしな」と言っていた。

「起こしてくれても良かったやんか」
「幸せそうに寝とるヤツを起こすほどわたしも鬼ちゃうわ」
「そんなにか?」
「幸せそうやったで。夢で美味しいモンでも食べてんのかと思ったわ」
「飯は食っとらんかったけどな」

でもええ夢は見たわ、と言えば「治が幸せそうな顔するとかご飯のこと以外で理由あんの?」となまえは呆れたような顔をしてそう言った。なんや失礼な奴やな、と思いはしたけれどもなまえの言うことはあまり間違っていなかったのでそれを完全に否定することは出来なかった。「バレーしててん」なまえにそう言えば、なまえは「夢で?」と問うた。なまえの言葉に首肯した。

「何の試合か分からんけど、バレーしとって、えらい調子よかったわ」
「そういえば治バレー好きやったな」
「サーブが上手く決まってエライ気分良かったわ」

そう言えば、なまえは「えらい幸せそうやなあ」と言った。

「ボールが相手のコートのな、エンドラインあるやんか。あの相手コートの一番奥の線のことなんやけどな、あそこの所のギリギリに入ってん」
「それはすごいんか?」
「アウトラインのギリギリを攻めて入っとるから凄い」

バレーボールのことをよく知らないなまえは、己の話を聞きながら頭の上にクエスチョンマークをたくさん浮かべているようであったが、己が饒舌に喋るせいか、己にとって良かったということだけは理解してくれたようであった。なまえは己の話すことに相槌を打ちながら、「ええ夢見たんやね」と言った。

「わたしバレーのことようわからんけど、凄いってことにしとくわ」
「そうしとき」

そう言うと、なまえは楽しそうに笑っていた。そうして、己に向けて「治がそこまで楽しそうにしとるんやったら、高校の試合も見に行った方が良かったんやろか」とぼやいた。なまえと己は高校生の頃からの付き合いであったが、試合に誘ったにも関わらず、バレーボールのことは分からないからと言ってなまえが試合を見に来たことは一度もなかった。「なんや、今更言いよって。遅いねん」そう、なまえに言うと、なまえは困ったように笑いながら口を開いていた。

「ほんまにな。そこまで治が楽しそうにしとるなら、もったいないことしたなあて」
「今更やな」

俺今日の夢みて思ったんやけどな、そうなまえに向かって口を開いた。

「高校でバレーやめて今めしの仕事しとるやんか」
「せやね」
「バレー続けとったら、案外バレーでも食って行けたんかもしれんなって思ったわ」
「自信満々やなあ」
「けっこう良い線いったと思うで」

これはほんまにそう思う、と言うとなまえは「はいはい」と投げやりな返事をして言った。そうして、己の手が止まっていることを指摘して、「昼たっぷり寝たぶん夕方の仕込みは治が全部やってや」となまえが冗談めかしてそう言うのに「そのつもり」と答えれば、なまえは「ほんまに?やった」と言ってまた一口、おにぎりを頬張った。

「今の俺は気分がええからな」
「夢の調子が良かったからな」
「サーブがうまく決まっとったからなあ」

そうなまえに言えば、なまえは己の顔をみてくすくすと笑った。

「治は昔からそうやなあ」
「何が」
「バレーのこと喋るときはエライ楽しそうに喋るやん。ほんまに好きなんやなて思うわ」
「せやなあ、めしの次やったら好きかもしれん」
「あはは」

なまえはどこか遠くを見るような顔をして、「昔から治は変わらんなあ」と言った。「そうか?」男前になったやろ、と言えばなまえはくすくすと笑って「それはそうかもしれんなあ」と曖昧な返事をした。「でも、好きなことしとるときの治の顔は昔から変わっとらんよ、今もそうや」そう言って、なまえは己の顔を見ていた。

「今?」
「治、お店で仕事してるときエライ楽しそうにしとるで、無自覚かもしれんけどな」
2020-09-28