小説

逃げ出したい話

#リクエスト:年上彼女

 「どこか遠くに逃げ出したくなる時があるの。今がそれでね、でもどこにも行けないんだよね」そう、わたしが初めて犬飼に打ち明けたときに、彼は一瞬だけ目を丸くしたのちに、普段よく彼が浮かべている人好きのする笑みを浮かべていた。犬飼はわたしの言葉を、彼の言葉で肯定もしなければ、否定もしなかった。しかしながら、彼の表情からはわたしが逃げ出したいと言ったところで逃げられないということを分かっているようにも見えたし、もし仮に、わたしが逃げられるとしても彼は逃がしてくれそうになかった。
 もっと言えば、わたしは、逃げだしてしまおうとしているわたしのことをやさしく犬飼に引き留めてほしいと思ったのかもしれない。逃げたいと思っても逃げられないことを、改めて彼に優しく突き付けられてしまいたいと願っていた。犬飼ならばわたしのそういったわたしのやましい感情と、願望の混じったどす黒い気持ちを、わたしが言葉にして言わずとも汲み取ってくれるのだろうと思って彼に甘えたのである。だからこそ、わたしが誰にも吐けなかったみっともない弱音は、犬飼の前で発露してしまった。わたしの逃げたいという願望と、事実をやさしく突き付けられたいという希望の入り混じったみっともないわたしの弱音は、言葉となって犬飼とわたしの間に零れ落ちた。犬飼はわたしという年上の、ボーダーの先輩にもあたる女がみっともない戯言を吐いているにも関わらず、それを鼻で笑うこともしなかった。愛想のいい笑みをおまけにつけて、肯定も否定もしないやさしい言葉を選んでわたしに向けて言葉を吐いた。「……そうなんだ」わたしは犬飼の言葉に「うん、そうなの」と返した。犬飼は、明るい色をした双眸を丸くして、わたしの顔を見たのちに人好きのするような笑みを浮かべていた。「なまえさんがそういうことを言うの、初めてじゃない?何かあった?」そう犬飼はわたしに問うた。何かあったといえば、あった。これからやってくる大学の発表のことを思い出して憂鬱な気持ちになっているということを、わたしは犬飼に喋った。この発表が失敗しても、成功しても死にはしないのに、わたしはまるでこれが死刑宣告であるように緊張しているのである。「大学かあ」犬飼は、わたしの言葉にそう言った。「俺、大学行ったこと無いからよくわからないけど、結構大変なんだね」そう犬飼はわたしに言った。「緊張するとすごく逃げたくなっちゃう。それしか考えられなくなって頭がいっぱいになってしまうから、早く解放されたいって思うんだよね」そうわたしが言うと、犬飼は「なるほど」と言った。「考えたくなくても考えちゃうことってあるよね」犬飼はそうして、わたしの欲しい言葉を欲しいタイミングで適切に言う。今一番わたしが欲しいと思っていた言葉を、丁寧にわたしの心に寄り添うように吐くのである。年下の男の子に気を遣わせていることを情けないと思うのが半分、しかしながら、甘やかしてくれる犬飼のことを心地が良いと思っていた。そもそも、わたしは何故、自分が逃げ出したくてたまらなくなっているということを、犬飼に打ち明けてしまったのか。そのことを口走ったときには既にもう手遅れで、わたしはそれを犬飼に話すつもりは、そもそもなかったのである。しかしながら、無意識のうちにそうやって喋ってしまったということは、多分犬飼ならばわたしのそういう甘えた言葉を言っても許してくれるだろうと、無意識のうちに思ってしまったのかもしれない。一度そういうことがあれば、それが二度目、三度目になることは想像に易い。わたしはこうして逃げたくなるたびに、逃げられないように逃げ道をふさいでくれる犬飼に甘えてしまった。わたしが弱音を吐くたびに、犬飼は「何から逃げたいの?」と柔らかな声音でそう、わたしに問うのである。

「何もかもから逃げたいの」
「例えば、ボーダーとか?」
「それもある」
「大学とかもかな」
「うん。日常生活の何もかもから逃げて、ひとりでジッとしていたくなる」

それをやったところで怒られるってわかっているのにね、とわたしが言えば犬飼は「そういう日もあるよ」と言った。「俺も学校の授業があまり好きじゃ無かったりすると休みたいなって思うし、そんな感じかな?」と言った。そう言われてしまえば、わたしにとっては大部分を占めていると言っても過言ではない悩み事であるのにも関わらず、ひどく矮小な悩みのように思えて仕方がなくなってしまった。犬飼は「でも、なまえさんの考えることだからもう少し深刻なのかも」と付け足すようにそう言った。犬飼は気を使える人だから、わたしの感覚に寄り添って言葉を上手に選ぶことが出来る。だから、わたしがあまりにも深刻な顔をしていたせいか、そうやって彼に気を遣わせてしまったことを申し訳ないと思いもしたが、その心遣いがありがたいとも思った。わたしは犬飼に、「そう言われると、思ったより深刻じゃないかもって思える」と返すと、犬飼は「そっか」とわたしに言った。

「でも、なまえさんはどこにも行けないんだよね」

犬飼はそう言った。「うん」わたしは彼の言葉に首肯した。犬飼の言ったことは最もである。わたしはひとりで何処かに逃げてしまいたいと思うけれど、ひとりで何処かに行く度胸もなければ、どこに行けばよいのかも分からなかった。心の底から、現在の自分の生活から逃げてしまいたいと思っているのにも関わらず、わたしはどこに行けばよいのか、どうしたら逃げられるかを考えることをすっかり放棄してしまっていて、ただ逃げたいと口先だけで言うだけになっている。弱音を吐く回数が重なれば、犬飼もわたしの扱いに慣れてきたのか「なまえさん、今度は何があるの?」と犬飼はわたしに問うた。最初に逃げ出したいと思ったのはたしか、大学の発表の前日で、人の多い講堂の中で発表をしなければならないという緊張と、質疑応答で答えられないことを聞かれてしまったらどうしようという不安とに押しつぶされそうになってしまって、逃げたくてたまらなくなってしまったときだったけれど、今度も時と場所が違うだけで似たようなものであった。ただ、場所が大学からボーダーの本部に変わっただけのことである。

「今度、ボーダーで会議があるでしょ」
「ああ、二宮さんとかが呼ばれてたやつかな」
「そう、そこで喋らなきゃいけなくて……」

今回は、大学の発表ではなく、ボーダーという組織の中での発表だった。ボーダーという組織の中の偉い人や、戦闘員たちの中でも上位部隊の隊長たちの集まる、規模の少し大きな集まりの日に喋る必要があった。研究員として配属されているわたしたちが、半期の報告を行わなければならない日であった。「……なまえさん緊張しすぎだよね」別に死にはしないのにさあ、と犬飼はわたしに言った。

「だって、緊張するんだもん。上手く出来なかったらどうしようって思って」
「あとは失望されたくないとか?」
「……それもある。こんなくだらない発表をするために時間と金を使ってたのかって言われたらどうしようって思って」
「あはは、結構ダメになってるね」

犬飼は他人事のように笑ってそう言った。犬飼にとって他人事なのだから、彼が他人事のふるまいをしていてもなんら可笑しくはないのであるが、今わたしが欲しかった言葉はそういうものではなかったので少しだけむっとしてしまった。犬飼は「なまえさんに優しい言葉を掛けようと思ったけどさ、ほら、俺が言ってもダメだろうなって思って」と繕うように言った。

「どういう意味?」
「だって俺、なまえさんがどういうことやってるとかさあ、そういうのちょっとしか知らないから。何も知らないくせに『大丈夫だよ』とか言うのは良くないなって思って」
「凄い気を使ってくれるんだね」
「うん。俺結構やさしいでしょ」
「……それは、分かる」
「今の間、なにさ」
「本当にやさしいとは思ってるんだよ、弱音吐いて甘えても甘やかしてくれるところとか」
「甘えてる自覚あったんだ」

なまえさん結構そう言うところ無自覚だと思ったからさ、と犬飼は言った。「……多少はあるよ」そうわたしが言うと、犬飼は笑っていた。「なまえさん、甘えるのほんとうに下手だよね」そう言うところも含めて、ちょっと不器用だなって思うよ、と犬飼は言った。そうして、また人好きのするような笑みを浮かべて、「で、また逃げたくなってるんでしょ」と続けて言った。なまえさんがそういう顔してるときってだいたい大きな発表の前とかだよね、と犬飼は言う。わたしの、この逃げ出したくなるような発作のようなものは、すべて報告会のような日に起きる。「うん」わたしは彼の言葉に首肯した。犬飼は「なまえさんって真面目だからさ、そんなに心配しなくてもいいのにって俺は思うんだけど」と続けて言った。「でも、わたしの成果が期間と貰ってる賃金と釣り合っているかどうかが判断されるのはやっぱり緊張するよ……」そう、わたしが言うと、犬飼は「あはは、根拠は無いけどさ、心配しなくていいんじゃないかな」と笑いながら言った。「二宮さんとかがなまえさんのこと、キツく言ってるところ見たこと無いしさ、なまえさんが思ってるようなことってないと思うよ」そう犬飼は続けて言うのであるが、わたしはそれを懐疑的な目で見ることしか出来なかった。

なまえさんって本当に分かりやすいよね」
「そう?」
「うん。ちょっと俺の言ってること疑ってるなって思う」
「……」
「あはは、責めてるワケじゃないよ。俺はなまえさんの欲しい言葉をたぶん、あげられてないと思うけどさ、なまえさんの心配するようなことはないと思うし。もしそうなったら話くらいは俺も聞くしさあ」
「なんかわたし、犬飼に甘えてばっかりだね……情けない」
「別に俺は気にしてないよ。なまえさんも弱いところあるんだなって思うくらいだし」

犬飼はそう言って笑っていた。わたしは犬飼にとって何がおかしいのかわからなかったけれど、少しだけ気が晴れたような気がしてつられて笑ってしまった。「なまえさん頑張れる?」そう犬飼はわたしに問うた。わたしは「全然頑張れないけど、頑張ろうかな……」と答えるので精いっぱいだった。犬飼はそんなわたしを見て、目を細めて笑ったのちに「そっか」と言った。

2020-09-19