小説

懐かしい話

#リクエスト:出会ったばかりのふたりのお話

「どいてどいて!あぶない!」
「うわ!」

 人が降ってきた。「あぶない」という切羽詰まった声が自分の頭上から聞こえて、そちらの方を向いた時に見えたのは、宙に浮いた同じくらいの年頃の女のからだだった。女の、大きく見開かれた目と、己の目が合う。女のまるいまなこに、気の抜けるような顔をした己の顔が映っている。女が、コンクリートの地面に向かって落ちてくるまでの動作がまるで、スローモーションのコマ送りのようにも見えた。スカートの間から伸びる野生動物のようなしなやかな足が見えたときに、考えるよりも先に、身体のほうが勝手に動き出していた。
 大学の授業を終えたあとの下校中、当然ボーダーの任務中ではないので、今の己はトリオン体ではなく、生身のからだであった。しかしながら、落ちてくる女の子のことを見てしまえば、自分が生身かトリオン体かまで頭がまわらないまま、持っていた荷物を放り投げて換装もせずに降ってくる女のからだを抱えるために女のからだの着地地点に向かって動いてしまった。落ちてくる女を避けようとするのではなく、女の身体を抱えようとしたのは、日頃の訓練の賜物なのだろうが、残念ながら今は生身の肉体である。上から降ってきた女の体重を支えようとしたのであるが、支えきれずに降ってきた女の身体と一緒に、仲良くコンクリートの地面の上に転がった。女の体を抱えたまま尻からコンクリートの上に転がってしまった己の身体の上には女のからだが乗っていて、その女のからだの背の向こうには、夕暮れで橙色に染まりつつある空と、遠くに鱗雲が高くに浮いているのが見えた。女の降ってきた方を見れば、大学の敷地をぐるりと囲むように建っている背の高いコンクリート製の塀がある。この女はあの塀を飛び越えてきたのだろうか。

「……ケガはないか?」

そう問えば、女は腰をさすりながら「イタタ……わたしは大丈夫です」と言うのであるが、彼女の座っている場所がコンクリートの床ではなく、己の体の上であることに気づいて飛びのいた。「わ、ごめんなさい!」そう大きな声をだして、女はコンクリートの地面に腰を下ろしたまま、頭を下げた。

「ごめんなさい、大丈夫ですか」

「ケガとか、していないですか」と女は問うた。己の顔を見ている女の顔は知人のどれとも似つかないものであったが、この女の顔を見るのはなんだか初めてではないような気がした。コンクリートの地面にぶつかった尻のあたりが少し痛むくらいで、これは数分としないうちになんともなくなるだろうと思う。「大丈夫だよ」そう返せば、おんなはほっとしたような顔をして、「良かった」と言った。先に立ち上がった女は、コンクリートの地面の上に転がっている己に向けて手を伸ばした。立ち上がるのを手伝おうとする女の手を借りて、己も立ち上がった。「すまない」手を貸してくれたことにお礼を言うと、女は首を横に振った。女は「ほんとうにごめんなさい」と頭を下げていた。女が先ほど飛び越えて来た塀の方を見た。コンクリートで出来た塀は、自分の頭よりもずっと高いところまで背を伸ばしている。簡単に見積もって、三メートル弱はあるだろう。「ここから?」そう思わず口に出してしまうと、女は「ええ、まあ……」と歯切れの悪い返事をした。「高いな」そう言えば、女は「身長よりはずっと高いですね」と答えにならない答えを言った。

「……危ないから気を付けてくれ」

そう、女に言えば、女は申し訳なさそうな顔をして己の顔を見ていた。

「はい……今度は人がいないことをきちんと確認します」
「塀を飛び越えるのをやめた方が良いと思うんだが」

そう返すと、女は渋い顔をして己の顔を見ていた。

「近道なんですよここ」
「そうか?」
「まともに行こうとすると、ぐるっと回った向こう側から出ないといけないじゃないですか」

そう、女は長く続く塀の向こう側を指さした。ここから二百メートル以上先にある、大学の裏門のことを言っているのだろう。己は、その裏門から女にぶつかるまでのこの場所まで歩いてきたのだが、たしかに構内を通って裏門まで行ってこの場所まで歩くよりは、塀を飛び越えた方が早いという女の言うことは理解できなくもないが、この塀は結構な高さがあるし、今回はケガをしなかったからいいものの、人にぶつかってしまう可能性だってある。それを思えばやはり規定された正しい道を歩くべきだと思う。

「塀、結構高いじゃないか……」
「反対側は足場があるので上るのは簡単なんですよ。飛び降りるのはこの高さなら案外行けます」
「いや、俺には無理だな……」

そう返すと、女は思い出したように時計を確認して、「いけない!」と言った。

「急いでたんだった!ごめんなさい。それでは」
「ああ……気を付けて」

女はそう言って、走り去っていってしまった。その場に取り残された己は、その女の背中をぼうっと眺めていた。


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「やあ」
「嵐山くん」

空から女の子が降ってくるというフィクションのような出来事を経験をした二週間後、コンクリートにぶつけたお尻の痛みはとうに引いて、ボーダーの防衛任務を行い、大学に通うという日頃と変わらない生活を送っていた。大講堂に集められる朝イチの講義を受けた帰りに、目の前を歩いている女子生徒の後ろのすがたに見覚えがあったので、つい声をかけてしまった。振り返った彼女は目を丸くして己の顔をマジマジと見た後にそう、己の名前を呼んだ。

「久しぶり。えっと……」
「わたしはみょうじなまえです」

彼女の名前が分からず言い淀んでいると、彼女はみょうじなまえと名乗った。「ありがとう」彼女にそう返すと、みょうじは「いいえ」と言った。「これも何かの縁だと思って仲良くしてくれ」そう言えば、みょうじは「……わたしでよければ」と目線をそらしながらそう言った。二週間前の出来事のことを思い出して気まずい思いをしているのだろう。ケガは無かったし、痛みももう無いので余り気にしないで欲しいと思い、そうみょうじに言うと、「本当にけががなくてよかった」と言った。みょうじに「みょうじは俺の名前を知っていたんだな」と言えば、みょうじは至極当然といった顔をした後に、「当たり前じゃないですか」と言った。

「むしろ、三門市では知らない人の方が少ないでしょ」
「そうか?」

そうみょうじに返すと、彼女は「ボーダーの有名人、お茶の間のアイドル嵐山准くん」と言った。たしかに己はボーダーで広報の仕事もしているが、ボーダーの外の人に改めてそう言われてしまうと少し恥ずかしくなってしまった。

「なんか、照れるな」
「嵐山くんも照れることってあるんだ」
「ああ」
「こういうの、もう慣れてると思った」

「そんなことはないよ」とみょうじに言うとみょうじは「ふうん」と相槌を打った。「みょうじもこの授業を受けていたんだな」そう彼女に言えば、みょうじは「うん」と答えた。

「わたしは随分前から嵐山くんが同じ授業を受けているのは知ってたよ」
「なら声をかけてくれたっていいじゃないか」

みょうじは渋い顔をして己の顔を見て、口を開いた。「ぶつかった後に『あの日ぶつかったみょうじです』って言うのは勇気いるよ」そう言うので思わず笑ってしまった。「嵐山くんとだって喋ることになるとは思わなかったし」何も接点がないまま同じ教室にいて終わりになるんだと思った、とみょうじは言った。

「別に話しかけてくれたって良いじゃないか」
「友達でもないのに話しかけるのはなんか変じゃない?」
「そうか?」
「嵐山くんちょっと変な人って言われたりしない?」
「空から女の子が降ってくる以上に変なことはないよ」
「わたしもお茶の間のアイドルとこんなことになるとは思わなかった」

お茶の間のアイドルってなんだ、と言うと「嵐山くんのことだよ」とみょうじは言った。時計を見たみょうじが、「次始まっちゃうけど、空き?」と問うた。己は次の授業が空きコマだったので「空きだよ」と答えると、みょうじは「わたしも空きコマ。もしかしてその次の選択取ってる?」と問われたので「ああ」と首肯すると、みょうじは「じゃあわたしも一緒だ」と答えた。「カフェに行こうと思ってるけど、嵐山くんが良いならどう?」とみょうじが言うので、その言葉に甘えることにした。

「ああ、俺もご一緒させてもらおうかな。みょうじと話をしてみたいし」
「わたし、あんまりおもしろいこと言えないよ」
「それはどうだろうな」





みょうじそれ、どうしたんだ」
「これは骨折した足です」
「それは見ればわかるが」

みょうじとは週に二回ほど会う。これはいずれも同じ授業を取っている日で、みょうじと己は専攻が違うものの、教養の選択科目で同じ授業をとっていた。同じ専攻の友人が授業を休んだ日と、己のボーダーの仕事の都合で授業に出られなかった日にノートを借りることがあったり、空きコマの時間をカフェで一緒に潰したりすることが増えて、それなりに良い友人付き合いが続いていた。ボーダーの仕事の都合で前の一週間をまるっと休んでしまった後で、みょうじにノートを借りようと彼女の姿を探したときに、彼女の姿を見つけたのであるが、みょうじは松葉杖をついて歩いていた。包帯でぐるぐる巻きにされた片足を見て「どうしたんだ」と言った己の顔を見るなり、みょうじはばつの悪そうな顔をして目を伏せた。

「……」
「言えないのか」

そう、追い打ちをかけるように言えば、みょうじは目線を明後日の方に向けてしまった。そのみょうじの表情が、家で飼っている犬が叱られているときの顔と全く同じだったので、思わず笑ってしまいそうになるのであるが、それをこらえてみょうじにもう一度問うた。「どうしたんだ」みょうじは、逃げられないと悟ったか、明後日の方向を向いたまま、口を開いた。

「着地に失敗しました」

まさかあの塀を飛び越えるのに失敗したのかと思ってそう問えば、みょうじは首肯した。

「……」
「そんな顔しないでください」
「正直に言うと結構呆れている」
「……足より心の方が痛い」

己が学校を休んでいる間に塀から飛び降りたときの着地に失敗して片足の骨をきれいに折ってしまったのだとみょうじは言った。包帯でぐるぐる巻きにされた足を見せながら、みょうじは「困ったね」と言った。「人は巻き込まなかったか?」みょうじにそう問えば、みょうじは「うん。周りはちゃんと見て飛び越えたから」と言った。一応あの日のことはみょうじなりに反省しているようであった。己からしてみれば、反省するなら人がいないときに飛びこえるのではなくてあの高さの塀から飛び降りようとすること自体をやめてくれと思う。「ひとりだったから足折ったとき死ぬかと思った」とみょうじは言った。それは自業自得である。みょうじは自分の足を見せながら、「この調子だから、今は渋々回り道をしているよ」と言った。このまま卒業するまでずっと彼女が言うところの回り道(正しくは、そちらのほうが正しい道路なのであるが)をずっとしていてほしいと思う。みょうじのその様子に心底呆れてしまって、ついため息が漏れてしまった。みょうじは己の顔を見て「反省しています」と言うのであるが、今度こそ塀を越えようとすること自体やめる方向で反省してほしいと思う。「もう二度とそれをやるんじゃない」と言えば「はあい……」と渋々と言った顔で、間延びした返事をした。

「暫くはきちんとした道を通ります」
「これからもずっと正しい道を通ってくれ」


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「そんなこともあったね」
「俺はまだ覚えてるぞ、なまえが塀から落ちてきた日の話はいつでもできるし、結構ウケが良い」

なまえはぎょっとした顔をして己の顔を見ていた。大学を卒業して数年、大学の時に運命的な出会いを果たしたなまえと生活を共にすることになるとは夢にも思わなかった。あの日初めてなまえと遭遇した日のことは、今もよく覚えていて、つい昨日のことのように思い出すことができる。それくらい、初対面のなまえとの出会いは衝撃的だった。空から女の子が降ってくるということは、そうそう起きることではない。それがボーダー内部の出来事であれば、ランク戦やらで空から人間が降ってくることはあれど、なまえと己との出会いはボーダーではなく、大学からの下校中の出来事である。普遍的な生活をしていれば空から女の子が降ってくるということは殆ど無い状況で起きた出来事なのだから、彼女が己に与えた衝撃というものは計り知れないものである。

「その恥ずかしい話どこでしてるの?」
「隊員たちには話した」

隊員たちってあの子たち?となまえが問うた。なまえの言う隊員たちというのは、先日、結婚の挨拶をするときに紹介をした嵐山隊に縁のあるボーダー隊員たちのことを指しているのだろう。己はその問いに首肯した。「……もう顔合わせられない」なまえはそう言って顔を覆ってしまった。なまえに紹介する前どころか、なまえと結婚をすることが決まる前の、なまえとお付き合いをしているときにも彼女との馴れ初め話として彼らにはもう喋ってしまった後なので、なまえと顔を合わせる時にはすでにあの話を、面々は皆知っていた。その話を知らなかったのはなまえだけで、なまえは緊張からか、顔合わせのときに小さくなって己の背に隠れて随分おとなしい顔をしていたせいもあって、「本当に嵐山さんの言う通りの方なんですか?」と木虎には訝しげな顔をされてしまった。隊員たちは半信半疑というような顔をしていたのが余計に面白くて笑いそうになってしまったことは、誰にも言えなかった。

「綾辻が『おとなしそうな人なのにかなりお転婆ですね』って言ってたぞ」
「どうしよう。まさか式の最中にその話したりしないよね?」
「ははは、どうだろうな」
「ちょっと!」
2020-09-13