小説

五メートル

 夕方の時刻を告げるチャイムが鳴って、二時間も経ってしまえばいくら陽の長い夏であっても、西の彼方に太陽のすがたは見えなくなってしまう。街並みの間からオレンジの残滓だけがうすらと漂う空がやみいろに飲み込まれてしまえば、あとは街頭の青白い電灯があたりを淡く照らす時間だった。すっかり陽が落ちた後のわたしの家から一番近い公園は、昼間の喧騒をすっかり忘れてしまったように静まり返っていた。公園で遊んでいた子どもたちは、夕方のチャイムが鳴った頃から彼らの親に手を引かれて一人、また一人といなくなっていって、今はもう、遊ぶ子のいない公園のブランコの上に立って乗るわたしと、ブランコの柵の向こう側から、ブランコに乗るわたしのすがたを立って見ている聖臣くんのふたりきりになってしまった。

「聖臣くん」

五メートル。この距離は、聖臣君と、ブランコの周りに設置された安全用の背の低い柵を挟んだ向こう側のブランコに乗るわたしの物理的な距離である。心の距離はたぶん、そこまで遠くはないと信じたい……けれど、それもどうかはわからない。聖臣くんは嫌なものに関しては表情に良く出すけれど、前向きな感情を表に出しているところをあまり見たことが無いから、実のところ、わたしは彼のことがあまりよく分かっていないのである。マスクで顔の半分が覆われて目元しか見えない聖臣くんは、ジトリとした目でブランコの上に立っているわたしをただ見ているのであるが、その表情は日頃見る彼の表情とそう変わりない。もともと聖臣くんは溌剌とした表情をしている人ではないので、少しだけ気だるそうに見える彼の今の表情が多分、彼の平常なのだと思う。聖臣くんはわたしの顔の方を向いて、ぶっきらぼうに「なに」と言った。

「最近どう?」
「どうって何が」
「部活とか」
「いつも通り」

聖臣くんのオフの日に、わたしは彼に初めて我儘を言った。彼と友達から名前のある関係性になってから、一度も言ったことのない我儘を、言ったのだ。「聖臣くんが良かったら、会いたい」と言ったわたしの我儘は、彼によって叶えられた。昼間は暑すぎるから陽が落ちた後で、わたしの家の近くの公園で会う約束をした。本当は、同級生たちの中で話題にあがるデートらしいデートのようなことに憧れていないというわけではないのだが、聖臣くんは賑やかなところに行くのがあまり好きではないみたいなので、こういう形に落ち着いた。会う前までは聖臣くんに会いたくてたまらなかったはずなのに、いざ会ってみたら何を話していいのかが分からなくなってしまった。わたしはバレーボールのことを良く知らない。わたしが知っているのは、バレーボールに真摯に向き合う聖臣くんの背中だけである。「そっか」そう、わたしが聖臣くんの言葉に返せば、聖臣くんは何も言わずに、視線だけをわたしに寄越している。途切れた会話を無理やり繋ぐすべを、わたしは知らない。だから、わたしはただブランコに揺らすことしかできなくなってしまった。居心地の悪い沈黙を破るために聖臣くんに話しかけてみるけれど、それはあっさりとした聖臣くんのひとことですぐに会話が終了してしまう。うまく広がらない会話は、さらに居心地の悪い沈黙を作るばかりで、その沈黙に耐えられなくてわたしはブランコを漕いだ。キコ、キコとブランコの揺れる音が聖臣くんとわたしの間に、一定の間隔で流れる。聖臣くんは、ブランコを漕ぐわたしのすがたを、表情の読めない目で見ているだけであった。それが、彼にとって嫌なものを見ている時の表情ではないから、聖臣くんは今の状況をさして不満に思ってはいないのだろうとわたしは勝手にそう考えている。聖臣くんは、嫌なことに関してははっきりと嫌だと言う性格をしているから多分、わたしの考えていることは概ね間違ってはいないのだろう。

「ねえ、聖臣くんに近づいても良い?」

わたしは彼との物理的距離を埋めてみたいと思ってそう、彼に問うた。好きな人とは一緒にいたい。もう少し近づきたい。友達だったら許してくれないかもしれないけれど、恋人ならば許してくれる距離に、わたしを置いて欲しいとそう淡い願いを抱いてしまった。「……」聖臣くんは眉間にしわを寄せてわたしの顔を見ているだけだった。マスクで顔の半分が隠れているというのに、彼の目は、彼の言葉の数以上にものを言う。聖臣くんはもう少し言葉に出して言ってくれたって良いと思うことがある。たとえば、わたしに対する感情だとか、嫌なこと以外の前向きな感情とか、そういうものをもう少し言葉に出して言ってくれてもいいのではないか。わたしは聖臣くんのことが好きで、聖臣くんもきっと、わたしのことが好きだと思う。彼の口から直接そういう言葉を聞いたことは一度もないし、関係の始まりだってわたしが押して押した結果、聖臣くんが折れる形でなし崩し的にそうなったのであるが、わたしの『会いたい』という我儘に付き合ってこうして、練習のない一日オフの日にわざわざ外に出て、聖臣くんの家からそう近い距離ではない、わたしの家の近くの公園まで来ているのだから、彼もたぶん、わたしのことが好きなんだろうと思う。「わたしのこと、好き?」と彼に一度も聞いたことはないけれど(そう彼に聞いて喜ぶどころか面倒くさがる性格をしていることくらい、古森くんほど長くはない聖臣くんとの付き合いの中で良く知っているからあえて、彼に自分から聞いたことは無かった)、多分聞いたところで嫌そうな顔をしてわたしの顔を見るだけだということは分かり切っていた。きっと本人に言ったら嫌そうな顔をされるだろうけど、それも多分、照れ隠しなんだろうと思う。そんな聖臣くんは、聖臣くんが(たぶん)好いてやまないかわいい彼女(希望的観測な上、自分で自分のことをそう言うのもどうかと思う)が距離を詰めたいと甘えて言ったのにも関わらず、このざまである。思い切り顔をしかめてわたしの顔を見る聖臣くんの表情は、無言の拒絶のようにも見えるし、照れ隠しの肯定のようにも見えた。

「……じゃあ、ここでいい」

そうブランコの上に立ったままそう言えば、聖臣くんは「あっそ」と言ってそっぽを向いてしまった。彼の答えは肯定の方であったようだった。距離を詰めても良いのか、いやなのか言ってもらわないと何も分からないよ、とは思うけれどそれを彼に対して言うのも今更すぎるように思う(彼が言葉少ななのも、態度に出にくいところも分かった上で、聖臣くんのそういうところが可愛いと思えて仕方がないと思っているからである。かと言って、こういう時にはっきりと「近づいてもいい」とわたしに言う彼もなんだか聖臣くんらしくなくて、変な感じがするので、今の聖臣くんのままでいいのだとわたしは思っている)。わたしは聖臣くんの方を向いた。聖臣くんは、わたしの顔など少しも見ないで、反対側の方を向いてしまっている。

「……いいの?」

わたしはもう一度、そう問うた。「……」しかしながら、聖臣くんの口からは返事一つ出てこなかった。彼の口から言葉が出ないことは分かり切っていたので、彼の返事を待たずに自分から距離を詰めた。近づいて欲しくなかったら「それ以上寄るな」とぶっきらぼうに言うだろうから、聖臣くんから言われてはじめて立ち止まれば良いのだと自分に言い聞かせる。わたしは立ち乗りしていたブランコを降りて、一歩ずつ聖臣くんのほうに向かって歩いた。わたし、柵、聖臣くん。距離は五メートルから縮まって、一メートルと半分程度になった。わたしの身長とさほど変わらない距離になって、彼に向かって手を伸ばすと、聖臣くんは「その手で触るな」とぴしゃりと言った。

「……手を握るのはダメ?」
「手を洗ってこい。石鹸がある水道で」

聖臣くんはそう、顔をしかめてそう言った。聖臣くんが本当に嫌そうな顔をしてわたしの手と、わたしを交互に見遣った。ダメ元で聖臣くんに「ダメ?」と聞いてみたけれど、聖臣くんは「無理」とハッキリ言い切った。でた、聖臣くんの潔癖性。わたし、柵、聖臣くん。柵を挟んでもう一歩、聖臣くんのほうに近づいた。わたしと彼との間は多分、一メートルあるかないか。手を伸ばしたら届く場所に聖臣くんの手があるのに、触れさせては貰えない。聖臣くんは、ブランコのチェーンを握っていた手と、わたし、それからまだ揺れているブランコのチェーンを見て、全く理解できないと言いたげな顔をしていた。聖臣くんにとってあのブランコのチェーンは汚いもので、それを握ってブランコを漕ぐわたしというものは、きっと彼にとっては理解の範疇を超えているものなのだろう。

「ハンカチは持ってる」
「……ちゃんと洗ってるんだろうな」
「お母さんに洗ってもらった」

わたしは洋服のポケットからハンカチを引っ張り出した。ワンポイントの刺繍の入った、結構気に入っているハンカチを聖臣くんに広げて見せた。聖臣くんはハンカチをまじまじと見ていた。彼の目にはハンカチの上に乗る細菌やウィルスでも見えるのかは分からないが、まるでそういうものを探しているようにも見えるくらい大真面目な顔をしてハンカチを見ている。そうして、暫くハンカチを見ていた聖臣くんは、突然渋い顔をし始めた。何か気に入らないことでもあったのかと、彼の視線の先を辿ると、辿った先にはハンカチの隅に刺繍された耳の短いウサギがあった。聖臣くんは、それを大真面目な顔をして見ていたのかもしれない。そんなに流行っていないユルすぎる耳の短いウサギのキャラクターについて、「かわいいでしょ、ウサギさんだよ」と言って、聖臣くんによく見せた。聖臣くんは「ウサギ?」と訝しげな顔をしていた。たしかに耳の長さがそんなに長くないけどこれはウサギなんだよ、と言ったけれど、聖臣くんはあんまり納得していないようであった。

「聖臣くん」

そう、わたしは聖臣くんにハンカチを見せながら、もう一度問うた。聖臣くんはため息を吐いて、ポケットからハンカチを出して、柵越しに自分の左手に被せてこちらに手をだした。きれいにアイロン掛けされて、折り目がきっちりとついた暗い色をしたハンカチの乗った手を、彼はわたしに向かって差し出したのである。あんなにわたしが触れることを嫌がっていた聖臣くんが、わたしに向かって手を差し出してくるとは思わなかったので、差し出された手と、聖臣くんの顔をマジマジと見てしまった。「見んじゃねえ」聖臣くんは、わたしにそう言った。それでもわたしは彼の顔から目をそらすことが出来なかったので彼の顔をジッと見てしまった。聖臣くんは呆れたような顔をして手を引っ込めようとしたので、「待って」と引き留めてしまった。ハンカチ越しではあるけれど、潔癖症の彼にとっての精いっぱいの妥協の線がこれなのだと思うと、なんだかそれもかわいいように思えて仕方がなくなってしまったので、わたしも随分と聖臣くんのことが好きなんだろうと思う(多分、相手が聖臣くんでなければ失礼な人だと思って跳ね除けてしまっているかもしれない)。わたしは、自分の右手にハンカチを被せて聖臣くんから差し出された手を、恐る恐る握ると、ハンカチ越しの聖臣くんの手が、わたしの手を強く握った。

「手も落ち着きがない」

そう、聖臣くんは、彼の手の中で緊張のあまり震えてしまっているわたしの手を握りながらそう、呆れたような顔をしてそう言った。

「なんで震えてんの」
「緊張してる」
「そっちから言い出した癖に」
「はずかしいもん」
「直接つないでないのに?」
「好きな人の近くに行くのは、ちょっとはずかしいんだよ」
「あっそ」

聖臣くんは呆れたような顔をして、わたしの顔を見ていた。ハンカチ二枚越しではあるけれど、わたしは聖臣くんの今、一番近いところに居るのだろうと思うと照れくさくなってしまった。ハンカチ越しの聖臣くんの手は暖かかった。「暑いだろ」聖臣くんはそう言った。まだ、秋にはほど遠い。いくら陽が落ちたからと言って、涼しくなるにはまだ随分と時間が掛かるだろう。「うん」わたしがそう、聖臣くんに言うと、聖臣くんが手を放そうとしたので、今度はわたしが、聖臣くんの手を強く握った。「でもいいの。もうちょっと繋いでいたい」そう、わたしが聖臣くんに言うと、聖臣くんは思い切り顔をしかめていた。聖臣くんのこの顔は、わたしのことが全く理解できないというのが半分で、残りの半分は多分、照れ隠しだと思う。


2020-08-15