小説

我慢比べの話

#初恋の話,情けない話と同じ設定の話です

 「信ちゃあん、来たでえ」コンバインのエンジン音の間を縫うように聞こえた女の声に、思わず顔を上げ、あたりを見回して声の元を探す。己の渾名を呼ぶ幻聴でも聞いてしまったのだろうか。本来の、田圃はしずかである。遠くの鳥の鳴き声と、時折吹く風に稲穂がさわさわと泳ぐ音が聞こえるほどで、重機を動かしていなければ、音なぞ自然のものしか聞こえてこないのである。その中で、人の名前を呼ぶ声というものは滅多に聞こえやしない。「信ちゃあん」もう一度、己の渾名を呼ぶ声が、聞こえた。どうやら、幻聴ではなかったらしい。西日の茜色があたりを照らし、青々とした稲穂を金色に染め上げている。金色の絨毯が広がる一帯の向こう側のあぜ道に、大荷物を持った若い女のすがたがひとつだけ、あった。コンバインのエンジンを止めてそちらを見れば、「信ちゃあん」と間延びした声が、また自分の渾名を呼んだ。この渾名で呼ぶ人は片手の指で数え切れるほどの人しかいないので、自然と声の主が分かってしまう。「なまえ?」年若い女であれば猶更である。こちらに向かって大げさに手を振るなまえに向けて手を振ると、なまえが両手を口元にあてて、叫んだ。

「忙しい?」

収穫の時期は、一年の中でも最も忙しい。特に、晴れの日の日中は、稲刈りを行い、夜は収穫した米を選別し、袋詰めにしなければならない。いくら手伝いを雇っているとはいえ、忙しいことには変わりない。なまえに返事をする前に、なまえは持っていた大荷物をあぜ道に置き、荷物の上に腰を下ろした。就職で関東のほうに出かけたなまえが、今日戻ってくるという話は、ひと月ほど前に電話で聞いていた。「信ちゃんに会うん楽しみやなあ」と電話口で話すなまえがやけに楽しそうだったので、柄にもなく嬉しくなったことを思い出した。なまえと会う約束はしていたが、約束は今日ではなく明日の夜だったはずである。移動で疲れているだろうから、移動の日はやめておこうと言う話を、つい昨日電話でしたばかりだと言うのに、昨晩の電話の相手はなぜか、あぜ道にあった。関東から新幹線で戻ってきたなまえの帰路で、この場所は通らないはずなのに、この場になまえが居るということはおおかた、自宅に居る祖母か、両親に己がここにいることを聞いてやってきたのだろう。己の自宅に寄ったのであれば、己の自宅の近くにあるなまえの実家に旅行荷物を置いてから来れば良かったのに、何故かなまえは大きな荷物を持ったまま田圃まで来たのである。

「家で待っとき」

なまえが座り込んでいる場所に向けて、そう叫んだのであるが、なまえは「おかまいなく!」と己に向けて叫んだ。「日ィ暮れるまで終わらんで」そう、なまえに言ったのであるが、なまえは「飽きたら勝手に帰る!」と答えた。ここまで言うなまえはもう、こちらが何を言っても聞かないので、なまえのことを放っておいて自分の仕事に戻る。再び掛け直したコンバインのエンジン音がごうごうと鼓膜を揺らし、気づいてみればあぜ道に居るなまえのことは視界の隅に追いやってしまっていた。

「……帰らんかったん」
「面白かったもん」
「どこがや」
「信ちゃんよう働いてんなあって」

結局、なまえは陽が落ち切り、その日の仕事を切り上げてしまうまで、あぜ道で大人しく座って待っていた。持ってきた旅行荷物を椅子の代わりにして、あぜ道でコンバインを動かす己の姿をただただ見続けていたのだという。何もおもろいことないやろ、と言ったのであるが、なまえにとってはお気に召すものだったらしい。見られて困るものは何もないので、仕事ぶりを見られることは何とも思わないのであるが、授業参観のことをなんとなく、思い出してどこかむず痒くなってしまう。なまえは「仕事しとる信ちゃん新鮮やったなあ」と楽しそうに喋っていた。「授業参観て、こんな感じなんかなぁ」信ちゃんのお母さんなった気分やわ、となまえは言った。「なまえの息子なった覚えないわ」そう返すと、なまえは笑っていた。

「わたし、クラス一緒になったことないし、信ちゃんがバレーしてるとこくらいしか見たことないしな。信ちゃん授業受けるときも真面目やったんやろうなぁて思うわ」

そうなまえは言った。たしかに、なまえに言われて初めて、なまえのことをよく知っているはずなのに、教室でのなまえがどんな様子だったのかを全く知らないことに気付いた。小さい頃から一緒だったのにも関わらず、同じ学校でも同じクラスになったことは、今まで一度もなかったのである。これも今更の話だが、己は、なまえのことをそれなりによく知っていると思っていたのであるが、己の知らぬなまえのことが存外、多くあるらしい。「授業は真面目に受けるもんやろ」そう、返せばなまえは「仕事してる時の信ちゃんもそんな感じやった」となまえは楽しそうに言った。

「荷物、置きに行ったら良かったやん」

そう、なまえの椅子になってぺしゃんこになっていた彼女の荷物を持った。なまえは己から荷物をとりあげようとしていたのであるが、荷物を取ろうとするなまえを無視していれば、お礼だけを言って荷物のことはすっかり諦めてしまったようであった。なまえの旅行荷物は軽かった。こちらに長居するわけではないのでそう、多くの荷物を持ってきていないだけかもしれないが、己の見たことのある女子の旅行荷物というものはほんの一泊二泊でも大荷物だったように記憶していたので、なまえの荷物の軽さに拍子抜けしてしまった。しかしながら、この大きな荷物を持ってここまで来るのは大変だっただろうに、と思う。「信ちゃん家行ったらなあ、ばあちゃんに田圃おるって教えてもらってな、はよ行かな思って」となまえは大真面目な顔をして言った。

「なんやそれ。ここよりなまえん家の方が俺ん家から近いやんか。荷物置いてきたら良かったやん」
「はよ信ちゃんに会いたかってん」
「約束したんは明日やろ」
「待ちきれんかった」
「せっかちやな」

なまえは「可愛いやろ」と胸を張って言った。「何がや」そう問えば、なまえは「信ちゃんに会いたくて待ちきれなくなったわたし」と至極真面目な顔をしてそう言い切った。なまえのどや顔に呆れてしまい、「自分で言うなや」と言ってしまった。するとなまえは、「なんでえな、可愛い言うてくれてもええやんか」とむっとした顔をするので「可愛い可愛い」と返した。その投げやり加減が不満だったのか、なまえが「めんどくさそうに言うて」と言うのが面白くてつい噴き出してしまった。「なに笑ってんの」なまえが不満そうな顔をして、己の顔をみながらそう言った。


すっかり暗くなってしまったあぜ道を歩く。街灯の少ないこの場所は陽がすっかり沈み切った後、西日の橙色も消えて夜がやってきてしまえば、真っ暗になってしまう。田圃に落ちないよう気を付けるようにとなまえに言えば、なまえは「そんなドジせえへんわ」と鼻で笑っていたのであるが、その数分後に足を踏み外して田圃に落ちそうになってしまっていた。「ほら見い」と言えばなまえは笑っていたけれど笑っている場合ではない。時折重機が通る道路側を歩かせるのもどうかと思ったのであるが、陽が沈んだ後であれば重機はおろか人も通らないので、田圃側を己が歩くことにした。なまえは「なに信ちゃん、気ィ遣ってくれんの」と茶化すように言うのであるが、「田圃に落ちかけた奴が何言うとんねん」と言えばなまえは「わたしが悪うございました」と投げやり気味に言っていた。真面目に反省して欲しい。

「あー、信ちゃんと話すん久しぶりやわ」

なまえはそう言った。「電話で毎週喋ってるやん」そうなまえに返せば、「ちゃうよ、信ちゃんと顔合わせて喋るん久しぶりやなぁって話」となまえは言った。たしかに、なまえが関東に出てからのここ数年は、なまえと顔を合わせて話すことは一度もなかった。電話が好きじゃないと言ったなまえから電話がくるようになり、気づいてみればここのところ最近は毎週に一度は話すようになっていた。なまえの仕事の話や、好きなコンビニデザートの話、それから己の仕事の話や家族の話など、もうこれ以上なまえに話すことも、なまえが己に話すこともないはずなのであるが、対面して話していれば不思議と、話したそばから次の話題がぽつぽつと浮かんでくるのである。冗談を言い合って笑ってみたり、もう随分と昔のことになってしまった高校生の頃の話をしたり、今も選手として活躍している部活の後輩の話をしていれば、なかなか話題は尽きないものである。電話口だけで話すなまえにも慣れ始め、そろそろ声音だけでなまえの様子をおおむね察することが出来るようになったと思うのであるが、対面で話すなまえが表情をくるくる変えながら話す様子を見ていると、それが、存外気のせいであるような気がしてならない。電話をしている時もこんなふうに表情をくるくる変えながら、楽しそうに喋ってたんか、と思えば悪くないような気がした。

「せやなあ」

なまえにそう言えば、なまえは「やから、信ちゃんにはよ会いたくてきてもうた」と言った。「昨日も喋っとったのに?」そう問えば、なまえは「信ちゃんいじわるや」と言うのである。

「電話の信ちゃんとは昨日喋っとったけど、顔合わせた信ちゃんとは昨日話してないやんか」
「明日喋るやん」
「明日も喋りたいねん」
「なんや、喋りたがりか」
「わかってて言うてんのやったら信ちゃん小悪魔通りこして悪魔やで」
「何がやねん」
「教えたらん」

分かってんのに、分かってへんふりをする信ちゃんはいじわるやな、となまえは言った。なまえの言う言葉通りに受け取っていいのであれば、なまえに関することは、自分にとって都合のよい考え方をして問題ないのだろう。それならば、なまえのことを一から十まで察して、なまえを甘やかすのは、今度こそもうやめにしようと思う。「信ちゃん」と言って甘えてくるなまえのことをカワイイと思ってはいるものの、相手に対して抱いている感情までをなあなあにして、すべてを汲み取って終わりにしてやろうとは思わなかった。なまえのことは、よくわかっているつもりである。こうして、隣でモジモジして喋るなまえを見ていれば、どんなに鈍いヤツでも察してしまうだろう。特に、己の場合は隣で好意を隠しきれていない振る舞いをしているなまえが、己の好きな女なのだから猶更である。しかしながら、そこまでなまえを甘やかしてやりたくはなかった。ここで、己がなまえに対して欲張っているということを、己自身が一番理解していた。何より、なまえの心がそうであることを知りながら、なまえの心を知らないような顔をして、なまえの隣でなまえの言葉を今か今かと待ち続けている自分のことを悪魔だとなまえが言うことは、あながち間違いではないのだろう。なまえと、己の間にあるのは、ただの我慢比べである。どちらが先に自分の気持ちを言葉にするかどうかの、しょうもないチキンレースが始まっているだけのことであった。

「……何も言わんと分からんで」

そう、なまえに言った。なまえはきょとんとした顔をして、己の顔を見た後に「なら一生分からんでええねん」とツンとした顔をして言った。一度口を閉じてしまったなまえが、二度と口を開かないということはとてもよく知っている。しかしながら、自分が欲しいものを得るために、ここで折れるわけにはいかないのである。


2020-07-24