小説

三門市電狭軌N形#5

 遠くから、声が聞こえる。女の実家の客間に案内されてしばらく、女の名前が女の母親によって呼ばれた。己が普段呼ぶことのない、女の下の名前だった。それに女が短い返事をして、女の母親のいる部屋の方へと行こうとするので、今朝、三門市を発ったときに買った土産の入った紙袋を女に渡した。女は「ありがとう」と言って、母親のところへと行ってしまった。女と、女の母親とが遠くで会話をしている声が、うっすらと聞こえる。女の母親の、『父さん』『いつ』と言う断片的な言葉が聞こえたときに、女が、彼女の母親に父親に会いに行く日程を問われているのだと察した。女の母親に対する答えを言う女の言葉まではは、聞き取れなかった。今朝から行動を共にしていた大荷物を客間の畳の上に置かせてもらい、荷物の隣に座って一息吐く。この部屋は少しも揺れていないのにも関わらず、鈍行列車に揺られているときのゆれが未だ、うすらと残っているように思う。女と、女の母親の笑い声がこの部屋にまで届いたとき、女が想像していたのだろう悪い方の想像が、杞憂で済んで良かったと思った。遠くから、足音が聞こえる。板張りの床の上を歩く、軽い足音が客間の前でぴたりと止んだ。「二宮くん」客間の戸の前で、女の声が聞こえた。「開けるね」そう言って、女は己の居る客間の戸をゆっくりと開いた。先ほどまですっかり硬い顔をしていた女の表情は、雲散霧消していた。どこかすっきりしたような顔をした女は、荷物の傍らに座っていた己を見て、「もう少し休む?」と問うた。

「いや」
「長旅の後で申し訳ないけど、後一か所行きたいところがあるのだけれど……」
「会いに行くんだろう」

女は首肯した。

「お前は行けるのか」
「ちょっと疲れたけど、大丈夫。行けるよ」
「そうか」

女の後を追い、玄関の扉を潜り抜けた。女は、奥の部屋にいるだろう母親に「行ってきます」と挨拶をすると、女の母親から「気を付けて行ってらっしゃいね」と声が掛かった。女は「……いよいよだ」と気合を入れるように手を握り込んだ。

「……緊張しているのか」
「……けっこう、緊張してる」

太陽はすでに、西の彼方に顔を半分ほど隠し、目に染みるほどに濃い青空は、すっかり赤く染まっている。遠くまで広がる畑の、青々とした稲や、草木の群れをも茜色に染めていた。燃えるような空の色の通り過ぎてしまった東の空は、これから訪れる夜のをほのかに匂わせてくるのにもかかわらず、真昼に漂っていた、むしむしとしたまとわりつくような、わずらわしさのある生ぬるい空気が肌を撫でた。女の、涼しげな色合いのワンピースが、生温い風に吹かれて気持ちよさそうに泳いでいる。

「昼より涼しくなったけど、暑いね」
「ああ」

そう、女に相槌を打てば、女は己の顔を見て、目を細めて笑っていた。「なんか、へんな感じ」そう、女は己に向かって言った。「何の話をしている」そう、女に問うた。女は、己を見た後に、己のずっと後ろ、地平の彼方の方を見るような遠い目をした後に、己の顔を見た。

「ここに二宮くんが居るのが、なんか変な感じ」

女の実家のあるこの土地に、縁も所縁も無い。数少ないすれ違う人たちが、己らに向ける視線が、よそ者へと向けるそれであることを思えば、己はこの土地の中では十分浮いて見えるのだろうと思う。それが、服装のせいなのか、己のふるまいのせいなのかはわからないが、この場所に住んでいる人の醸し出す空気というものが、己には存在しないからなのかも知れぬ。もしかしたら、目の前の女も三門市に来たころには似たようなものを感じていたのかもしれない。ボーダーという組織が出来て市外から人が多く来ることになるまでは、今己が感じているような、閉じた空気というものが、己の意識していないところに有ったのだろう。長く住み続けている人たちの醸し出す空気と、外から来た人の醸し出す空気の違い。三門市に長く住んでいる己には分からない、こちら側と、よそ者とを区別する、少しばかり居心地の悪い空気だ。
己ひとりでは多分、この場所にはきっと来なかっただろう。目の前の女の故郷だと言われても、女の故郷を見るためだけにこの土地に来ようとは思わなかっただろう。女の言葉に、「そうだな」と言えば、女は「アハハ」と声を出して笑っていた。何がこの女にとって面白かったのかは分からない。

「歩くのか」
「うん。遠くはないけど、しかもけっこう悪い道を歩くよ」

女はそう言った。女の実家の砂利道を抜け、コンクリートで舗装された道路を歩き、そこからまた逸れた細道へと入っていった。随分と古い道路なのか、ぼろぼろになったコンクリートの上に、大粒の石ころが転がっている。まるで、砂利の上を歩いているようだと思っていると、コンクリートで舗装された道路が終わり、砂利道へと変わってしまった。大粒の石ころが転がる道路が、ずっと向こう側の方まで続いているのが見える。

「……二宮くん大丈夫?」
「何の心配だ」
「体力」
「そこまでヤワではない」

そう返せば、女は「そっか」と楽しそうに言った。この砂利道の続いた先に、この女の父親が居るのだろうか。道なりに歩いていると、広がっていた畑は姿を消して、墓地へと差し掛かった。新旧入り乱れた墓石が、空に向かって静かに背を伸ばしている。己の先を歩く女の足が一歩進むたびに、元気そうにおしゃべりまでしていた女の口数が、心なしか少なくなっていった。それは、この悪い道を歩き続けていることからくる疲労からなのか、それとも女の父親がすぐ近いところまで来ていることへの緊張からなのかは、己には分からない。女の後ろを歩く己には、女の表情が少しも見えないのだから、知りようもないのである。己に見えているのは、西日に焼かれた女の髪の毛と、涼しい色をしたスカートが生ぬるい風に吹かれて泳ぐさまだけである。

「手をかりてもいい?」
「……ああ」

一歩先を歩く女の足が止まった。己に向けて差し出された手を、そのまま握った。汗が滲む女の手は、しっとりとしてほんの少しばかり、冷たかった。「二宮くんあのね」女が口を開いた。「二宮くんに手をつないでいてもらうとちょっと安心する」そう、女は言った。

「こうして繋いでもらってたことをね、ちょっと思い出すんだよね」
「父親か?」
「そう」

二宮くんとわたし、同じ歳のはずなのにね、と女は言った。女のおしゃべりが、止んだ。すっかり黙り込んでしまった女の目の前にあるのは、小さな墓であった。ひしめき合うように墓が並ぶ墓地から外れた場所に、ぽつんとさみしく建っていた。墓に刻まれた名前が、己が今手を握っているこの女の苗字と同じものであったことで、女が言わずとも察することが出来た。墓石がまだ、真新しいあたり、この墓が建ってからまだ、時間は経っていないようであった。「お父さん」女の薄い唇が開いた。女の隣にいる己にしか聞こえないくらい、小さな声であった。女の細い声が、目の前の墓石に向けて発せられている。「……わたしは、けっこう強くなったと思います」その声だけは、やけに通って聞こえた。「でも、会いに行くのに時間が掛かってしまいました」ごめんなさい、と女は言った。女の言葉に対して、返事は来なかった。ただ聞こえるのは、夕暮れに鳴くカラスの鳴き声と、カナカナとなくヒグラシの鳴き声が鼓膜を揺らす。己の手から、女の手が離れた。女は、墓石に向かって手を合わせていた。夏の声が聞こえる。鈴虫のリーンという声が聞こえて、日の終わりを思った。朝から始まったこの女との旅の終わりも、すぐ目の前にあった。


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 燃えるような夕焼けはすっかりなりをひそめ、空の端を紫色に染め上げている。東の空はとうにやみいろに染まり、雲の無い空には白や銀の砂のような星がいっぱいに広がっていた。明かりが少なく、背の高い建物のないこの地で見る空は三門市で見るよりもずいぶんと、広い。うすぼんやりとした道のりを、女と己は歩いていた。

「強くなるまで絶対に帰らないって、啖呵切っちゃったから帰れなかった」

父親に挨拶を終えた女は、元きた砂利道を歩きながらそう、言った。女の声音は、どことなく柔らかなもののように聞こえた。

「わたし、スカウトされた時にボーダーに行くって決めたんだけどね、父さん、わたしには無理だって言うから意地になったんだよね。よく、おぼえてる」

女は、古いアルバムを丁寧に捲るように、口を開いた。女と初めて会った日のことを、思い出していた。東さんと一緒にやってきて、己に向かって「強い人であれば誰でもいい」とのたまった日のことである。「わたしには無理だって言うから、強くなってやろうって。わたしは出来るってことを見せたかった」だから、十分すぎるくらい強い二宮くんに一回でも勝てれば、わたしもそこそこ強くなったって言っても良いかな、って思ったんだけど……と女は続けて言った。女の決めた強さの目標が達成できるまで、女は実家へと帰らないようにしていたのだという。結局、少しくらい強くなったところを見せる前に死んじゃったけどね、と女は自嘲的な笑みを浮かべていた。「親の葬式に出なかったのは、さすがに悪かったかもしれないとは思っていてね」だから、実家に帰ること自体が怖かったのだと、女は続けて言った。彼女の実家の玄関先で緊張していたのはそういうことだったのかと、今ならば分かる。「……あれでよかったのか」即席で組んだチームで行った模擬戦で、この女のスコーピオンに刺されたときのことを思い出しながら、女にそう問うた。自身が強くなった証明をしたいのであれば個人戦で一本が取れた後の方が良かったのではないかと、そう考えてしまったのである。確かに、この女と己との間の約束は、己から一本を取ることとなっていたので、ルールの上での不満は無かった。しかしながら、女の達成目標はそれでよかったのではないかと思うところがある。「そう言われたら弱いなあ」と女は曖昧に言った。

「ひとりではまだまだだけど、チームに貢献できるくらいは強くなったってことを強くなったって言ったらダメだと思う?隊長どの」
「お前は他人におんぶにだっこで俺を墜としたのか?」
「違います」
「なら、問題ないだろう」

俺はお前の隊長ではない、と言えば女は「アハハ」と笑った。

「二宮くんにそう言ってもらえるとなんか、安心するよ」
「俺は事実を言ったまでだ」
「うん、だからこそ安心する」

チーム戦のときに二宮くんを落とせたのが一回だけだから、強くなったって言っていいのかちょっと不安だった、と女は自白するように言った。

「……そもそも個人戦だと分が悪いだろう」
「やっぱり?わたしもそう思ってたけど、二宮くんもやっぱりそう思う?」

女の問いに首肯した。女は、「二宮くんはやさしいなあ」と言った。

「優しい?」
「優しいよ。わたし、あの時東さんが二宮くんを紹介した理由、何となくわかるもん」
「どう考えても太刀川の方が良かっただろう」
「それはトリガーの相性の問題?」
「そう言うところまで考えが回らないのはどうかと思うが」
「それを言われるとかなり痛い」
「ただでさえ分が悪いのに地形もろくに使わないで突っ込んでくるのは意味がわからない」
「うっ」
「チーム戦では地形をうまく使えてるだろう。個人戦でうまく使わない理由が分からん」
「……」
「無自覚か」

女は「でも、太刀川くんだったらここまで付き合ってくれなかったかも知れないって思うんだよね」と言った。二宮くんは案外、面倒見がいいでしょ、と言った。「もし太刀川くんにお願いしてたら、わたしが余りに成長しなさすぎて途中で見捨てられそうだとは思う」と女は続けた。太刀川の肩を持つつもりは無かったが、太刀川も、この女くらい粘り強く根性が座っているのであれば、根気強く付き合っていただろう。結局、己はこの女の性根を気に入って、途中で見捨てることもできずにえんえんと個人戦に付き合ったりしていることを考えれば、東さんの言う適任という言葉は、このことを見越して言ったことだったのかもしれないと今更ながら思う。

「しかし、お前が個人戦で俺を倒せるようになるのはまだまだ先だな」

そう、女に言えば「うっ」と言葉を詰まらせてしまった。そうして暫く黙り込んで、「でもなんか、今なら行けそうな気がする」とのたまった。「気のせいだろう」そう言えば、女は「そこはもうちょっとなんか言葉選んでよ『良いことがあるといいね』とかあるでしょ」と食い気味に言った。最初に事実を言う己のことを持ち上げておきながら、こういうところでは吠えるので忙しいやつだと思った。口から言葉は出ず、代わりにため息が出た。

「次、ここに来るときにはもっとマシな報告が出来ると良いな」
「……うん」
2020-07-09