小説

三門市電狭軌N形#4

 電車が終点に着くころには、空の色は随分と様変わりしていた。東の空にいたと思っていた太陽はいつの間にか天辺をとおり、西の方へと沈み始めていた。地平の彼方に足をつけたまるい太陽は、空をごうごうと燃やしながら、一日のおわりを知らしめている。クーラーの効いた電車から降りた時に押し寄せるむっとした空気は、熱気が無くなった分随分とマシになったように思う。それは、三門市から随分と北上した場所にこの土地があるからなのかもしれないが、三門市に居た時に比べれば随分と過ごしやすい(それでも、暑いことには変わりないのであるが……)。この時間になれば、昼間に比べれば随分と気温も落ち着いてくるものであるが、蒸し暑さは三門市にいた時とあまり、変わりなかった。随分長い間世話になった電車を降り、大荷物を持った女と己は、降り立ったホームから一番離れた駅のホームへと歩く。人の姿が見られない、随分と寂れた駅のホームであった。出発駅の構内で見たあの人々は一体どこへ散って行ってしまったのかと思わずにはいられないほど、この場所に人の姿は無かった。己と女、二人だけがこの駅に立っている。自分たちの立っているホームの反対側、線路を隔てて向こう側には人の姿がちらほらと見えてはいるが、己らの立っているホームに人が来る気配はなかった。駅の電光掲示板の橙色が、次の電車が来るまであと、十分も満たないことを知らしめている。その次の電車が出るのは三十分以上後だったので、運が良かったと言っても良いだろう(この女にとっては、与えられたタイムリミットが短くなったに等しいため、それが良かったかどうかは分からないが……)。駅のホームからは電車の車庫がある駅なのか、今は走っていない電車の車両のすがたがひとつ、ふたつあった。夕刻を知らせる音楽が、遠くのスピーカーから流れているのを聴きながら、東の果てを見る。夏のせいか、東の果ては今だ、橙色の滲んだ空が遠くまで続いている。入道雲の欠片たちは、橙色に染まって空にぽつりぽつりと浮いていた。

「……あと二駅」

女の顔はこわばっていた。キャリーバッグの持ち手を握る手は力を入れすぎているせいか、白くなっている。「次で最後か」そう言えば、女は首肯した。

「うん。そのあと、ちょっと歩くけどね」
「五時間か?」
「そんなわけないでしょ」

二宮くんも冗談言うんだ、と女はそう言って曖昧に笑って見せた。もう腹を括ったのか、それとも、いまだにこの場所から逃げてしまいたいと思っているのかは、女の表情から読み取ることはできなかった。しかしながら、この女のことだから逃げることはないだろうということだけは、分かっていた。この女の諦めの悪さを、己以上に身をもって知っている人間は、ボーダーという組織の中にはきっといないだろう。女は、「二宮くん」と己の名前を呼んだ。また、沈黙が嫌だと言い出すのかと思い、「何だ」と返事をした。「……もう少しでついちゃう」女はそう言った。その声には、時が過ぎてほしくないという願いが半分と、もう半分は、これからのことに対する決意が滲んでいた。「そうだな」そう、己は女に言った。悪あがきをしたところで時間は刻一刻と過ぎていく。過ぎてゆく時間を止めることは、女にも、当然、己にも出来ない。女の、実家に向けて走る電車の姿が、遠く、線路の果てから走ってくるのが見えた。先頭車両に付いた、ぼんやりと光るライトの姿を、己と女は眺めていた。「電車、来ちゃった」「ああ」女は至極残念そうな顔をして、そう言った。「行けるのか」己は、女にそう問うた。女から出てくる答えなぞ一つしかないと分かり切っているくせに、そう己は問うたのだ。女は「……二宮くんってたまに意地が悪い時あるよね」と困ったように笑っていた。女の言葉の意味は分かりかねるが、言いたいことは理解していた。

「そういう時は『大丈夫か』でいいのに」
「……俺はお前の望むような器用さは持ち合わせていない」
「知ってる」

女はそう言って、また笑っていた。己は思い切り顔をしかめて、この女の顔を見てしまった。「気を使ってくれてることは、分かるよ」女はそう言った。駅に停車した電車のドアのボタンを押すと、ドアが音を立てて開いた。乗客のいない電車の、出入り口に近いボックス席に、己と女は座った。数分と経たないうちに、電車は走り出した。がたん、ごとんと心地の良い揺れが響いている。己と女の間に、言葉は無かった。電車がひと駅目に到着するころ、先ほどまで笑っていた女の表情が、硬くなる。いよいよ、己らは目的地に到着してしまう。悪あがきをして伸ばした時間の終わりが、もうすぐ目の前にまで来ている。女は、硬い表情のまま、車窓から外を眺めていた。夕焼けの橙色が、女の横顔を染めている。女は何も言わずに、目を伏せた。それが、女が泣いているように見えたので、女の顔をまじまじと見てしまった。女は、泣いてなどいなかった。そうして、目的地の隣駅を発車し始めるころに、女は己の顔を見て呟いた。

「……もう、次かあ」
「ああ」
「少しくらい気を遣ってよ」
「……大丈夫か」

己は女にそう、言った。女に先ほど指摘された通り、そのままを伝えたのである。女はそんな己を見て大げさに、ひとしきり笑った後に口を開いた。「二宮くん面白いね」そう、この女はのたまったのである。気を遣えと言ったのも、そうしろと言ったのもお前だろうということは、言わなかった。言わずとも、女も己もそれを知ってるに違いない。

「……ありがとう。なんか、元気出たよ」

己と女を乗せた電車は、目的地の駅へと到着した。ドアボタンを押してドアを開けて、己と女は電車から降りる。こじんまりとした、古びた駅舎が畑の中にぽつんと建っている。雨風をしのげるだけの小屋と言うほうが正しいように思えるほど、駅舎はみすぼらしいものであった。「なんだか、懐かしいな」女はそうぼやいた。「三門市の駅を見てたら、この駅ってこんなに小さかったのかって思うよ」そう、女は続けて言った。無人の改札を通り抜けて、古びた駅舎の中に足を踏み入れる。外から見ても随分古い建物のように見えたが、建物の中も随分と年季が入っている。駅舎の中には人間のすがた一つ見えなかった。己と、女だけが狭い駅舎のなかにふたりだけが突っ立っている。出入口そばの掲示板には、『御用の方は──駅まで』と、二つ隣の駅の名前の書かれた、随分年季の入った張り紙と、色褪せた防災ポスターが画鋲で貼られていた。画鋲はすっかり錆ついていて、この防災ポスターが貼られたのも今からもう何年も前のことなのだろう。女は大きく伸びをして、「着いちゃった」と言った。その言葉に滲むのは諦念である。女と己は歩き出した。女にとってはなれた道のりだろうが、己には初めて歩く道のりである。駅舎を抜け、見えたのは延々と続く緑であった。青々とした畑が夕焼けに照らされて橙に燃えている。果てまで続く緑を眺めながら、己らは、緑と緑の間をすり抜けるように引かれた、車一台が通るのがやっとだろう砂利道を歩いた。一歩足をすすめるごとに、砂利を踏みしめる音がよく響いた。女はすっかり黙り込んでいた。己の、一歩前を歩く女の表情は分からない。父親との対面が怖いのだと言った女は、もう覚悟を決めて、歩を進めているのだろうか。

「二宮くん、お疲れさま」
「……ああ」

女があゆみを止めたのは、一軒家の前であった。視界の果てまで広がる畑の中にぽつんと建っている家であった。「ひいじいちゃんの居る時に建てたからちょっと古いんだよ」そう、女は目の前の家を見ながら言った。女の言う通り、目の前にある家は新しいとは言えない建物であった。随分年季の入った、木造住宅である。女は己の顔を見ていた。「二宮くん、お願い」女はそう言って、己に手を差し出した。差し出された女の手と、女の顔を交互に見ていると、女が口を開いた。「お願い、手を握っていて」そう、女は言った。「怖いのか」そう問えば、女は「うん」と言った。差し出された女の手を握る。ここまで歩いている間に汗をかいたのか、それとも緊張しているのか、女の手には汗が滲んでいた。「ごめんね、汗かいてて」そう、女は言った。女は家のドアノブに手をかけた。生唾を飲み込んだ女の喉元が、震える。「……」女は黙り込んだのちに、ドアノブを思い切り引いた。開いたドアの向こうには、彼女とよく似た顔をした女性の姿があった。女があと何十年も年を食えば、女性のような顔つきになるのだろう。「……お母さん」そう、女は呟いた。女の母親は、女と、己の姿を見つめていた。「帰ってきたの」そう、彼女の母親は言った。女は硬い表情のまま、「……はい」と彼女の母に向かって答えていた。女の手が、己の手の中で震えた。指先が震えて、離れそうになる手を、己は強く握りしめた。女がぎょっとした顔をして、己の顔の方に向かって女の首が動いた。女の顔が、こちらを見ていることを知りながら、己は女の方を見なかった。女ではなく、女の母親の顔を見ていると、己の顔と、母親の顔とを交互に見ていた女が「フーッ」とゆっくり息を吐いた。

「……ただいま帰りました」

女が己の手をゆっくりと握り返してきた。ほんのりと湿った手指は、暑さのせいなのか、それとも目の前の母親に対して抱いている畏怖の念から来た冷や汗なのかまでは、分からなかった。女の母親はゆっくりと口を開いた。「また、急ね」それは、この女を歓迎しているとも、拒絶しているとも取れるものであった。女と、女の母親の間の関係性を知らぬ己は、ひとり場違いであった。女は暫く黙り込んだのちに、意を決したような顔をして口を開いた。

「……お父さんに会いに来ました」

女の母親は、己と、女とを舐めるようにじっくりと眺めたのちに、「……随分遅かったのね」の一言だけを残し、「客間は自由に使ってちょうだい」と言って奥の部屋へと姿を消してしまった。女の母親の姿が見えなくなったころ、女は緊張が解けたのか、足の力が抜けてしまい、玄関先でへたり込もうとしてしまう女の手を引いて支えてやると、女は「ごめん」と己に向けて言った。

「……気、抜けちゃって」
「見ればわかる」
「アハハ」
「本題はこれからなんだろう」

この女は、父親に挨拶をしに来たと言うのだから、彼女の目的は未だ果たせていない。女は「……そうだね」と言って、再び立ち上がった。己の腕から、女の体のぶんの体重が消えうせ、女の手が、己の手からゆっくりと離れていった。女の表情は、どこかすっきりとしたものになっていた。それは、彼女の母親との対面が済んだことから緊張がとけたからなのか、諦念から来るものなのかは、分からない。今の己に分かるのは、少なくともこの女が目的を果たさずに終わることは無いだろうということだけである。
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