小説

三門市電狭軌N形#2

 市外に向けて走る電車は、生ぬるい風とともにやってきた。「涼しい、クーラーって最高」そう、女は恥ずかしいくらい大きな声で言っていた。周りの視線なぞこの女は全く気にならないのか、まわりに立っていた他の旅客はそんな女の顔を、生暖かい目で見ていた。こんな恥ずかしい奴の連れであることを知られたくなかったので、他人のふりをしていると、女は「二宮くん」と己に向けて話かけてきたので、「声が大きいから静かにしろ」と言ってしまった。女ははたと気づいたような顔をして周りを見て、「ごめんなさい」と小さくなった。「次の乗り換えね、すぐだよ」そう、囁くように、女は次の乗り換えまでそう時間がかからないことを告げた。すぐ降りるのであれば、座席に座る必要もないので、電車の出入り口の傍で立っていることにした。電車が、ゆっくり動き出す。電車のアナウンスが、隣駅の名前を告げるころ、己は女に問うた。

「どこまで行くんだ」

己は女に、「一泊分の荷物と、からだと、二宮くんの時間をください」と言われただけで、行先を知らない。「当日までのお楽しみじゃダメかな」とごまかすように笑ってはぐらかそうとするので、敢えてそれ以上行先を問わずにいた。女は少し気まずそうな顔をして、己から目を逸らしていた。女の視線の先にあるのは、己の顔ではなく、向かいの座席の上の網棚がある。この女は、話をごまかすことがどうも下手すぎる。女より年下の中学生や高校生でさえもっと上手く誤魔化すだろう。何も言わずに、この女の顔をジッと見ていると、この話題からいよいよ逃れられないことを悟ったか、女は「……えっと」と前置きをして、口を開いた。

「わたしの、実家に行くんだよ」
「実家?」
「そう、実家。帰省」

女は目をそらしながら、そう言った。

「……お前の実家は、どこだ」
「ちょっと遠いよ」
「……新幹線の距離だろう?」
「うん……」
「少しなのかそれは」
「……」

この女が市外から来ていることは、ボーダー本部の部屋を間借りして住んでいることから大方察していたのであるが、女がどこからやってきていたのか、具体的な場所までは知らなかった。女の口から出てきた出身地である都市の名前は、このあたりでは余り聞かない名前で、記憶が正しければ、三門市からは新幹線で二、三時間程度の距離にあったはずである。「……鈍行列車で片道だいたい、五時間程度を予定しています」女は言いづらそうな顔をして、白状した。まるでいたずらが見つかった子どものような顔をして、自分のやったいたずらを自白するようにそう、述べたのである。「遠いな」そう言えば、女は「遠いですね……」といやにかしこまって、呟いた。
「新幹線は嫌なんだろう」そう女に問えば、女は「うん、そう。新幹線だとちょっと早すぎるから」と言った。そうして、「こんなことに付き合わせてごめんね」と曖昧に笑って言うのである。

「構わない」
「……ありがとう」
「ただ、そういうことなら最初から言え」

女に言えば、女は「うん、ごめんね」と言った。出かける当日に女の実家の帰省についていくことを知ったとは言え、人の家に手ぶらで行くのはあまりよくないと思ったので、乗換駅で買い物に行くことを女に伝えた。女は己の意図を察したか、「わざわざそういうのはいいから、本当にいい……」と慌てて己を止めようとして喚いたのであるが、それを無視した。

「しかし、何故俺がお前の実家に行くんだ」
「……本当に下らないって思うかもしれないけど」
「くだらないかどうかは俺が決める」
「はい」

女はそう、前置きをして口を開いた。「一人で帰るのが、怖くて」言いづらそうな顔をしてそう言った。「たしかにくだらないな」と言えば、女は「そう言うと思った」と言った。「もう暫く帰ってないから、余計に怖いんだよね」なに言われるかわからないし、と女は続けた。

「ねえ、二宮くん、やっぱり帰るとか言わないよね」
「……そういう約束だろう、お前は俺に帰って欲しいのか」
「帰らないで、絶対」
「帰らないと言っている」

己の腕をつかんだ女に、「逃げないから離せ」と言えば、女は素直に己の腕を離した。そのときの女の顔が、まるで捨てられた犬か、猫のような顔をしていたのが可笑しかった。


:


女の言う通り、次の接続駅に到着するまでにそう、時間は掛からなかった。電車から駅のホームに降りた時に、むっとした熱気が己を襲った。じめじめした、生ぬるい空気が皮膚に触れ、外で鳴くセミの声余計に暑さを引き立てているのが煩わしい。道行くひとびとが、手で扇ぎながら歩いているのが見える。駅の構内を少しでも歩けば、汗が引いたばかりだというのにまた、汗をかいてしまいそうだった。この接続駅は、県の境を三、四程度越えて終点にたどり着く比較的長い距離を走る線路の停車駅でもあった。そのせいか、三門市内にあるどの駅とも比べ物にならないくらい大きな駅である。駅構内は、己らと似たような旅行客でごったがえしていた。人と人との間をすり抜けるようにして駅の構内を歩き、土産物屋にようやくたどり着いたころには、引いたはずの汗がまたじわじわと滲んでいた。

「いいよ、ほんとうにそういうの、買わなくていいよ」
「家族は何人いる」
「二宮くん人の話全然聞いて」
「俺は人数を聞いている」
「……親だけ」

やや不満そうな顔をした女は渋々そう答えていたが、己が三門市の特産品を片手にレジに並んだ頃には諦めたのか、もう何も言わなかった。

「なんだ、好き嫌いでもあるのか?」
「違う……」

好き嫌いがあるなら先に言えと女に言えば、女は顔をしかめて己の顔を見るばかりであった。会計が終わった後では「……本当にごめん」と、それしか言わなくなってしまった。今日の女は、謝ってばかりである。それもいい加減に聞き飽きてしまったので、「もういい」と言った。土産のことも、行き先のことも、そこまで気にすることではないだろうに、この女は己の機嫌を窺うように、己の顔を気まずそうな顔をして見ているだけであった。言葉に出さずとも、その目が言いたい言葉はよくわかった。ただ、音になって耳に聞こえなくなっただけで、目は同じことをずっと喋っているのである。煩わしいことこの上ないのであるが、それを言うと余計に面倒になりそうだったので、言うのはやめた。

「二宮くん、荷物持つよ」
「要らん」
「買ってもらったのに」
「いい」

土産物を買ってすぐに、県外へ向けて走る電車の止まるホームへと、人混みの間をかき分けるようにして歩いた。エスカレーターを下り、五番線とかかれたホームに辿り着く。市外、とくに都心の方ではなく田舎の方に向けて走る、下りの電車の止まる駅のホームは、駅構内の賑わいぶりに比べれば随分と静かであった。ぶら下がった電光掲示板に、次にやってくる電車の時刻が印字されている。電光掲示板の時刻を眺め、腕時計の文字盤を見た。少なくとも、次の電車が到着するまで、あと三十分以上は待つ必要があるらしい。スマートフォンで時刻を確認していた女が、己に向けて口を開いた。

「次の電車来るまで結構待つね」

駅のホームの待合室に、己と女は居た。ずいぶんと年季の入ったベンチに座り、己と女は次にやってくる電車を待った。「……ここから結構長いから、座席に座れるといいね」そう、女は言った。

「始発駅じゃないから、ちょっと立つことになるかもしれない。でも暫くしたら人が居なくなるから座れるよ」
「ああ」

女は、「二宮くん」と己の名前を呼んだ。「どうした」「何かあったわけじゃないんだけどね」そう、女は己との間に沈黙が起きるたびにそうして話し掛けようとするのであるが、余り話す話題が多くないのか会話はすぐに途切れてしまった。「……無理して話し掛けなくていい」そう言えば、女は「黙っていると怖いんだよ」と言った。「俺がか?」そう問えば、女は「違うよ」と言った。

「……緊張しちゃって、怖くなるんだよ」
「実家に帰ることがか?」
「そう。緊張するの」

そう、女は言った。女が実家との折り合いが悪いという話を聞いたことも無ければ、関係性が良いという話も聞いたことが無い。女の家族関係を問うことはしなかった。そこは、他人が踏み込んではならぬ領分であるからである。女は、「実家と関係が悪いとか、そういうのじゃないんだよ」と、己の疑問に答えるように、そう言った。「……ただ、本当に久しぶりに帰るから、緊張してるだけ」そう、続けて言った。

「ボーダーに入ってから実家に帰ってないから、もう二年ぶりくらいになるかな」
「……正月と夏も帰ってなかったのか」
「うん。わたし、家を飛び出して三門市にきちゃったから。だから、ちょっと気まずくて」

でもそろそろ帰っても良いかなって思ったんだよね、と女はそう言い訳するように言った。「でも、ひとりで実家に帰るのが怖かったから二宮くんに付いてきてもらっているのだけどね」そう、女は言った。女は「新幹線だと、心の準備が終わる前に家に着いてしまいそうだったから新幹線はやめたんだけど、これはこれで時間がじわじわ迫っている感じがしてちょっと怖い」と言った。軽快なチャイムの後に、アナウンスが流れる。己らが待つ電車が駅に到着することを告げるアナウンスであった。電車の停止線のあたりにはちらほらと電車を待つ人が並び始めている。「……行くか」そう言えば、女は「うん」と言った。己と女は待合室から出て、蒸し暑い駅のホームの上に立つ。喧しいほどに鳴くセミの声、屋根の隙間から見える突き抜けるような青い空に、浮かぶ白い入道雲の姿を見た。



乗り換えの鈍行列車は、随分と空いていた。後方車両のボックス席に向かい合うようにして、己と女は座った。「席、空いていてよかったね」そう、女が言うのに頷いた。「さすがにここから四時間半くらい立ちっぱなしは無いけど、それでも座れるようになるまで結構時間かかると思ったから、早めに座れて本当に良かった」そう、女は続ける。手で胸元を仰ぎながら、「電車の中は涼しいね」と窓の外を見ていた。駅のホームに、蜃気楼がゆらゆらとのぼっているのが見え、思わず顔をしかめてしまった。「二宮くんって結構汗かくほう?」女は、己にそう問うた。「どうだろうな」他の人がどれくらい汗をかくかなぞ、少しも考えたことが無かったのでよく分からなかった。

「二宮くんっていつも涼しそうだから、あんまり汗かかないんじゃないかって思うんだよね」
「そうか?」
「うん」
「汗くらいかく」
「ふふふ」

だからね、今日の二宮くん見て汗かくんだって思ったんだよ。今日の発見、と女は楽しそうに笑っていた。人間なのだから汗くらい俺もかくだろうに、と思ったのであるが、出たのはため息だけだった。「わたしはこのとおり、もうべちゃべちゃ。どうしよう……臭くなってるかも」そう言って女はサブバックの中身を見た後に「ちょっと、お手洗いに行ってくるから荷物見てて」と言って、女はサブバッグだけを持って、車両に設置されたトイレの方へと姿を消してしまった。車両のドアが閉まり、電車がゆっくりと動き始める。すっかり人のいなくなった、蜃気楼の立ち上るさみしい駅のホームが流れてゆくのを、車窓から眺めていた。女は、十分もしないうちに戻ってきた。随分とすっきりした顔をした女は、「お待たせ」と言って向かいのシートに腰を下ろす。女の、柔らかそうなワンピースの裾が翻った。

「汗拭きシート忘れてたらもう最悪だった。二宮くん使う?ちょっといい匂いするかもしれないけど」
「いや、いい」
「ざんねん」

女は口先では残念そうに言っていたが、その表情は少しいたずらに失敗したこどものような顔をしていて、あまり気にしていないようであった。ハンカチで汗を拭い、車窓から外を見る。市内の、繁華街の中心部を、電車は走っていた。背の高いビルの姿の間をすり抜けるように暫く走ると、あとは背の低い建物や民家が並ぶようになってゆく。次第にそれも数が少なくなり、田畑が遠く向こうまで広がる景色にかわりゆくのを眺めていた。接続駅から田舎に向かって走り始めれば、景色はえんえんと緑ばかりが広がっていった。青々と茂る稲の群れを眺め、ならぶビニールハウスの間を通り抜けていけば、街中の喧騒が束の間の夢のようにさえ思えてしまうほどであった。

「何故俺を呼んだ」

そう、女に問うた。女は、己の顔を見ながら、「理由?」と言った。女の、まっすぐとした黒いまなこが己の眼球をジッと見ている。

「なんとなくね、似てるんだよ」
「似てる?」

女の言葉を聞き返した。「うん」女は、頷いた。「わたしの、お父さんに。何となく」そう、女は大真面目な顔をして言った。「……」女の父親がどのような人なのかは全く分からないのであるが、女曰く、己は彼女の父親に似ているらしい。

「顔が似てるとかじゃなくてね、雰囲気が似てるの」
「具体的には」
「二宮くんの綺麗に一本筋が通っているところと、頑固そうなところ」

お父さんのことを思い出すんだよ、と女は言った。「そうか」そう、己が言えば、女は「うん。あとあまりしゃべらないところとかもちょっと似てる」そう言って、女は笑ってみせた。

「だからね、二宮くんがいてくれたら、途中で挫けずに家にちゃんと帰れるだろうなって」

もうすでに少しだけ挫けそうなんだけどね、と女は誤魔化すように笑った。

「俺が途中で帰ると言っていたらどうしていたんだ」

「……二宮くんは約束を絶対に守るからそれは無いと思うけど」そう前置きをして、「くじけてたかも」と自嘲的な笑みを浮かべながらそう言った。「今日の俺は、お前を実家に連れていけばいいんだな」そう、女に問えば、女は己から目をそらしながら「……うん」と小声で言った。「逃げるなよ」そう冗談を言えば、女は本気に取ったのか「逃げたりしないよ、多分……」と尻すぼみになりながら答えた。そこのところははっきり返事が出来ないのかよ、とまでは言わなかった。それを問わずとも、目の前の女がそれをしないことを、心のどこかで確信していた。ワンピースの裾を指先で遊びながら、曖昧な返事をするこの女が、やると決めたことを途中で諦めるようなことをしない女だということは、己も身を以て知っているからである。
2020-07-08