小説

三門市電狭軌N形#1

 市営鉄道の新弓手町駅は旅客で賑わっていた。市内の主要路線の停車駅でもあるこの駅は、平日、休日問わず人で賑わっているのであるが、今日は夏期の長期休暇の初日であるせいもあって、大きなキャリーバッグを引く人の姿が多く見える。大荷物を持った両親と、両親に手を引かれたこどもという親子の姿もあれば、大きなボストンバッグを持ち、この暑さの中でも手をつないで歩くカップルの姿もあった。行き交う人々がタオルやハンカチを片手に汗を拭い、背中に汗染みを作りながら歩いているのであるが、すれ違うひとびとの表情はどれも明るく、これからはじまる休暇や、旅行先に胸を膨らませているように見えた。かくいう己も、明るい表情を浮かべている人々の群れを構成する一部分にあたるのだろうと他人事のように思う。
 新弓手町駅の構内、中央改札口の正面には背の高い時計がある。この駅のシンボルであり、待ち合わせ場所にもよく使われるその時計の前には、待ち人の姿が多くあった。高い場所にある時計の文字盤と、駅の出入口や改札口とを交互に眺める人の姿がある。例に漏れず、己もその時計の前で待ち合わせをしている中のひとりであった。時計から少し離れた壁際で、肩に下げて持って歩いていたボストンバッグを下ろし、額に浮かんだ汗の玉をハンカチで拭った。自宅からこの駅まで、そう遠くない距離であるはずなのに、駅に着くころには既に汗だくになっていた。まだ朝の早い時間であるというのに、夏の日差しは肌を刺すようなものであったし、ほんの数分歩いただけで背にはじっとりと汗が滲んだ。背中に空気を入れるようにシャツの裾をハタハタと言わせてみたが、ちっとも涼しくならなかった。時計は九時を指していた。約束をした待ち合わせの時刻まで、ゆうに三十分以上時間があった。遅刻するよりはマシだと思い早くに家を出て、駅構内にあるコーヒーショップで時間でも潰していようと思ったのであるが、その当てが外れてしまった。今日が連休の初日であることをすっかり失念してしまっていたのである。当てにしていたコーヒーショップは、朝早くの時間であるにもかかわらず、既に人でいっぱいになっており、空いた席が見当たらなかった。持ち帰りでカップのコーヒーを買うのであれば、まだペットボトルのほうが持って歩きやすいので、コーヒーショップでコーヒーを買うのはやめた。近くの自動販売機で渋々二百五十ミリペットボトルのコーヒーを買い、時計の下に立つ。外から入ってきただろう鳩が、駅構内をのんきに歩いているのが見えた。なま温かい湿った空気が肌にまとわりつくことに顔をしかめている人のことなど知らぬような涼しい顔をして、首を前に突き出しながら歩いていた。
 駅構内の出入口の方を眺めながら、買ったばかりのコーヒーを流し込む。うだるような暑さの中で、喉を通るコーヒーだけがよく冷えていた。美味しいとも不味いとも言えない中途半端な苦味が舌に広がった。ペットボトルから口を離したときには、コーヒーはペットボトルの底一センチだけを残していた。自分が思った以上に喉が渇いていたのかもしれない。残りを持っていても仕方がないので、底に少しだけ残ったコーヒーも全て一気に流し込むように飲んで、近くのごみ箱に空のペットボトルを捨てた。そしてまた、改札の前の背の高い時計の前で、時間を眺める。最初に時計を見てから十分と少しの時間がいつのまにか過ぎていた。時間を潰そうと、ポケットからスマートフォンを取り出して、メッセージを確認した。業務連絡が数件来ているが、どれも急なものではなく、今日は休暇であるため、メッセージに返信はせず、未開封のままにした。ニュースサイトを眺めたりしていたが、特別興味のあるようなものは無かったので、スマートフォンをポケットの中に片づけ、駅の出入口を眺めていた。さらに数分と経たないうちに、見知った背格好の女が、大きなキャリーバッグを引きずって歩いてきた。見慣れているジャージスタイルではなく、涼し気な色合いのワンピースにサンダルといった装いであった。「二宮くん!」己の姿を見た女は、こちらに向って手を振り、キャリーバッグのタイヤをガラゴロと言わせながら、女は小走りでやってきた。ただでさえ人の多い駅で、女がやたらと大きな声を出したせいで、周りの人間の視線が一斉に、女と己の方に注がれた。女は衆目に晒されていたことなど全くと言っていいほどそれを気にしていない様子だったので、思わず顔をしかめてしまった。

「わたし、待ち合わせ時間まちがえた?」
「いや」

早く来ただけだ、と言えば女は「そうだったんだ」と言った。女の丸いまなこが、ぐるりとあたりを美亜渡したのちに、己の方を向いた。そうして、女は再び口を開いた。「……人多いね」大荷物を持った人の姿や、このあたりの特産品の紙袋を片手にもって歩いてゆく人の姿が多くある。「そうだな」そう言えば、女は「二宮くん、お店に入ってたほうが良かったんじゃない」と言った。「満席だった」そう返せば、女が「そうなの?嘘!」と言うので、己が入ろうとしていたコーヒーショップの方を指さした。女の視線が己の指す方へと注がれる。窓の外からでも、人でごった返しているのがはっきりと見えた。女は「うへえ」と思い切り顔をしかめていた。「ああっ……、あれじゃあ、無理だねえ」そう、困ったような顔をしていた。

「いつもならもっと空いてるのに」
「連休だからな」
「みんなどこいくんだろうね」

新幹線にのったりするのかなあ、と呑気に女は言った。

「さあな」
「二宮くんはあまりそういうのに興味なさそうだよね。あんまり他の人のこととか、興味なさそう」

己がどんな顔をしているかは分からないが、女にとっては余り興味がなさそうな顔に見えたのだろう。「……そうだな」道行く人々がこれから何処に行こうとしているかなど、己にとってあまり興味のあるものではなかったので、そのことは否定しなかった。「……二宮くん」女はそう、己の名前を呼んだ。急に畏まって名前を呼ぶので、つい身構えてしまった。「なんだ」そう言えば、女は口元をまごつかせながら口を開いた。

「……今日はありがとうね」
「約束は約束だろう」
「うん、約束」

女はそう、反芻するように言い、手を差し出した。差し出された手と、女の顔とを交互に見ると、女はもう一度、己に向って手を差し出した。その手を握ると、女が己の手を握り返してきた。己の手よりも随分小さい、細い女の手である。「……なんだ」握った手と、女の顔とを交互に見てそう問えば、女は意を決したように口を開いた。

「よろしくおねがいします」
「……何だ、急に畏まって」
「だって、わたしの用事に付き合ってもらうから、一応言っておかなきゃって思って」
「昨日も聞いた」
「うん」

女はギュッと己の手をもう一度握ったのちに、己の手を離した。

「二宮くんって手おっきいね」
「そうか?」
「身長も大きいけど」
「……ああ」
「手が結構大きくてびっくりした」

女はそう言って、己の目の前に手を広げて見せた。「二宮くんの手もかしてよ」そう言って、己の手を取って、手のひらを重ねた。女の指先が、己の指の第一関節のあたりに触れる。「ほら、やっぱりおっきいよ」そう言って楽しそうに言った。

「切符はもう買ったから二宮くんは買わなくていいよ」
「わかった」

女はそう言って、持っていたサブバッグから切符を一枚取り出した。夏期期間限定の、普通・快速列車の回数制限のある乗り放題切符である。「新幹線でも行けるけどさ、今日は鈍行で行こうと思って」そう、女は言った。「別にお金がないから新幹線にしなかったわけじゃないんだよ、本当だよ」そう、己が何も聞いていないのに女は捲し立てるように口を開いた。「……俺は何も言っていない」そう言えば、女はごまかすように曖昧に笑っていた。

「ちょっと遠いけどさ、たまにはこういうのも良いんじゃないかと思って」
「俺は悪いとも言っていない。お前がそうしたいのならそれでいいだろう」

俺はただ、お前と約束したから今日来ただけだ、と言えば女は「そっか」と言った。「切符はいくらだ」女に問えば、「いいよ、いらないよ」と言った。「……いくらだ」引かずにそう問えば、女は少々言いづらそうな顔をして切符の値段を言った。

「その金額は往復だろうな?」
「……片道です」
「分かった。後で精算する」
「いいって言ってるのに」
「俺はお前についていくと約束はしたが全額出してもらうという約束はしていない」
「身体と一泊分の荷物だけでいいってったのに」
「了承した覚えはない」
「頑固」

女はそう言って、「じゃあ、あとで精算するね」と言った。「忘れるなよ」念押しして言えば、女は肩を大袈裟に振るわせたのちに、むっとした顔をして己を見ていた。

「ごまかそうとするなよ」
「……早いけどもう、行こうよ」
「話を逸らすな」

そう女は話を逸らして、駅員の居る改札の方に向って歩いて行った。己は地面に置いたままにしていたボストンバッグを持ち、女の後ろをついていく。有人改札の前で、女が駅員に、俺と二名であることを告げると、女の差し出した切符に、今日の日付の書かれた赤い印鑑がふたつ押された。そうして、目の前の改札を通り抜けるように言われたので、そのまま改札を通り抜ける。

「二宮くん」

女は、意を決したような顔をして己の名前を呼んだ。「何だ」いきなり畏まって言うことが他にあるのかと、そう思いながら女の顔を見た。駅構内にぶら下がっている電光掲示板が、市外に向けて出発する電車がやってくるまで、あと五分ほど時間があることを示しているのが見える。「トイレにでも行きたいのか」そう問えば、女は「違う」と思い切り顔をしかめて言った。

「……よろしくねって、言おうとしただけだよ」

己は「ああ」とだけ返した。そうして、女は、市外に向けて出発する電車がやってくる駅のホームに向って歩き出す。己もその背を追って、歩いた。屋根が在るとは言え、駅のホームは蒸し暑かった。

「……暑いね」

女はワンピースの胸元を仰ぎながら、そう言った。「……ああ」生ぬるい風が吹き抜ける。周りの熱と、湿気とをごちゃまぜにした不愉快な、生暖かい風が女の髪を揺らしていた。

己は、今日からこの女と短い旅に出る。
2020-07-08