小説

群生

一.
 ボーダーに入ってから経験した最悪の思い出の中でも、人との出会いに限定すると、思い浮かぶのはみょうじさんだけである。人に対して腹を立てたのは、みょうじさんが最初で、みょうじさん以上におれを怒らせようとする人はこれから先、そう居ないのではないかと思う。みょうじさんという人は、年若い構成員の中では年長の部類に入る人であったが、大人たちの顔よりも疲れているように見えたし、何より、大人に見えたのは見た目だけで、本質は伴って居なかった。「ナア、迅。俺、お前には感謝してるんだ。お前が来てくれたおかげで随分楽になるからさ」みょうじさんは、初対面のおれに向って不躾にそう言った。おれの未来視のことを指してそう、彼が言ったのはすぐに分かった。持ちたくて持ったわけでもなく、能力に振り回されて苦しい思いをすることの方が多かったこの超感覚について、便利な能力であることを前面に出して、おれの気なぞ少しも知らぬ人にモノを言われたことに腹が立ち、みょうじさんに向って思い切り噛みついた。みょうじさんは、周りの人間に諫められて、「悪かった」とは言っていたが全然悪びれたような顔をしていなかったのが、余計に腹立たしかった。最悪の邂逅を果たしたみょうじさんは、噛みつくおれの言葉なぞ少しも聞かずに、「じゃあ戻るから、後はヨロシク」と言って奥の部屋に消えて、その日はもう二度と会うことは無かった。周りの人間はおれに向って、申し訳ないと頭を下げてくれたけれど、本来、おれに謝罪をすべき人も、腹を立てる相手ももう、この場にいなかったので気は少しも収まらなかった。

 みょうじさんと最悪の邂逅を果たしたその数か月後、おれがやっと、まともに一人で戦えるようになった頃のことだった。顔を合わせる人から見える未来に、共通して白い巨大な兵器が視えるようになった。顔を合わせる人、合わせる人の横並びの未来を視たところで、白い巨大な兵器が見えない未来はどこにもなかった。場所は、ボーダーの基地からそう遠くない場所に一体、誰の顔を見ても、白い兵器が見えるのだから、これは確定した未来で、この組織に居る人間の殆どに関係のある未来なのだろう。その旨を、大人たちに話せば、お礼を言われたあとに「やはりか」と言うので、もしかしたらもう、その時には大人たちは知っていたのかも知れない。
 大人たちに未来のことを話した日から、近いうちにやってくるだろう、白い兵器に対抗するために、基地内待機の人員が普段よりも多く配置されるようになった。特別体制が取られはじめて一週間がたったころのことである。基地の中の奥の部屋に籠り切りで、姿を見ることが殆ど無かったみょうじさんが珍しく、談話室にやってきて「二か月前に話してたやつだけどさ。あと一時間以内に来る。被害者は今の所いないはずだけど、警戒して」とだけ言ってまた、すぐに談話室から出て行ってしまった。相変わらず、最低限のことだけをぶっきらぼうに言い、周りの人間から与えられるねぎらいの言葉に少しも反応を見せないどころかその言葉すらも不要だと言いたそうな、気だるげな振る舞いをして姿を消すみょうじさんのことは、やはり、いけ好かない人だと思った。みょうじさんの言葉を聞いた隊員たちが立ち上がり、換装して外へと出る。「迅、アンタも準備して」と、おれよりも年下の、ボーダー歴の方では先輩にあたる小南に言われるがままに換装し、命令された通りに基地の中で待機していた。みょうじさんが言った通り、ちょうど一時間後に基地内にサイレンが響き、近界から自分のからだの何倍も大きな白い兵士が一機、門から送られてやってきた。みょうじさんが、おれと似たような感覚を持っていることをうっすらと察したのはその時で、本人でない人からの口から、みょうじさんの超感覚について語られたときに、彼もまた、己と同じような超感覚に振り回されている人だったということを知った。近界に行くときも、みょうじさんは常に気だるそうな顔をして、遠征艇の一番隅の席にすわり、誰と顔を合わせようともしない。誰も彼も、みょうじさんのその振る舞いに慣れ切っているのか、誰もみょうじさんに触ることは無く、相変わらず遠征艇のサイレンが鳴る前に、襲撃を伝え、人命を取捨選択しなければならない場合においてはおれが何かを言う前に、見捨てる方を選んで大人たちに伝えてしまう。みょうじさんは、ためらいと言う言葉を持ち合わせていないように見えた。みょうじさんの目に視えているものが、もしおれが視たものと同じものであるならば、彼もまた、おれと同じ感覚を味わって生きてきたに違いない。しかしながら、その時に抱いた感覚は、はじめて仲間を見つけたときに感じる親近感よりも、同じ感覚を持っているにもかかわらず、漸く会えた同類がどうしてあの人だったんだろうという気持ちだった。

二.
 やけに上機嫌なみょうじさんを見たのは、みょうじさんの超感覚のことを知ってからさらに二年後の、春のことであった。みょうじさんのことは相変わらずいけ好かない人だと思ってはいたが、おれが多少大人になったせいか、みょうじさんがどうにも合わない人であったとしても無難な付き合いは出来るようになった。みょうじさんが大人のようなふるまいをしてくれればいいのにというのが本音であるが、今のみょうじさんに慣れてしまえば、大人らしいふるまいをするみょうじさんというもののほうが、想像し辛い。非番だからと昼前に起きて、暇をつぶそうと談話室の方へと降りれば、普段、この基地の中の自室に籠り切っているみょうじさんが、珍しく居た。みょうじさんは鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気で、マーカーを片手に持ちながら机に向っている。

「なんだ、迅。起きたのか?」
「うん。おはよう」
「もう昼だぞ。飯は冷蔵庫な」
「……みょうじさんがいるの、珍しいね」

談話室の机の上に雑に広げられていたのは、日本全国の鉄道路線図と、この直近半年分の鉄道の時刻表だった。普段手元で遊ばせているスマートフォンで見ればすぐに時刻表も、路線図だってすぐに見つかるのに、みょうじさんは時刻表の細かい数字を追い、細かく線が引かれて目で見るのも辛くなりそうなほどに詰まっている路線図とにらめっこをしている。

「ああ、俺の部屋、電気無いからさあ、紙の文字だと見えないんだよ」
「……蛍光灯切れてるなら変えなよ」
「困ってないからいい」
「ええ……」
「俺はすごい面倒くさがりなんだよ」

主要路線の上をマーカーでなぞっているうちに、ペン先が隣のローカル路線を辿り始めて、主要路線を引いているつもりでローカル路線をマーカーで引いることに気づいたみょうじさんが奇声を上げてマーカーを放り投げて頭を抱えている。そこまで苦しむくらいならば、時刻表の上にほったらかしにされているスマートフォンでも使って経路をすぐに出してしまえばいいのにと、みょうじさんに言うと、みょうじさんは大袈裟にため息をついて「わかってないなあ」と言った。みょうじさんの、そう言う振る舞いが癪に障るのだということを彼はたぶん、知らない。

「迅は現代文化に毒されすぎた若者だなあ。せっかくの旅行なんだから、普段やらないことをやるのが良いんだよ」
みょうじさんとおれ、殆ど年変わんないよ」
「五個も変われば十分だろ。大人と中学生じゃ、結構デカいだろ」
みょうじさんまだ十九でしょ。でも、あんまり大人って感じしないし」
「生意気だなあ、おまえ」

みょうじさんはそう言って、目星をつけた時刻を、メモ帳にボールペンで書き出し始めた。算用数字で書かれた七の数字と一の数字の見分けがつかないくらいには、みょうじさんの書く字は汚かった。時刻表の横にミミズが這ったような文字で書かれているのがきっと、目的地の駅名だろう。みょうじさんの未来に、海が見えるから、彼が行くのはたぶん、海なのだろうと思う。おれの行ったことのない海の姿がぼんやりと映る。読みにくい字で書かれた駅名を見ただけでは、観光地として名前が知られているような場所ではないことだけしか分からない。面倒くさがりだと言いながら、一番面倒くさいやり方をしようとするみょうじさんに少しばかり呆れてしまった。

「俺、明日から三日、旅行に行くから」
「これ、明日から行くの?」
「そう」

みょうじさんは軽い口調でそう言った後、改まった調子で口を開いた。「なあ、迅。俺が居ない間、頼むよ」あまりにもみょうじさんがそう、真剣な調子で言うものだから、軽い調子で返そうと思ったのに、まじめに頷いてしまった。

三.
 みょうじさんは、翌日基地から姿を消して、彼が言った通り三日後の夕方に基地へと戻ってきた。コンビニに行った帰りのおれは、ちょうど、旅行から戻ってきたばかりのみょうじさんと橋の前で鉢合わせた。旅行に行くと言ったみょうじさんの持っていた荷物は、小さなリュックサックが一つだけで、基地に一泊するときの小南の荷物よりもずっと少ないように見える。

「よう、迅」
みょうじさん帰ってきたの」
「おー」

橋の上で、基地をぼうっと見上げながら「俺は帰ってきたんだな」とつぶやいた。「おかえり」そう、みょうじさんに言うと、みょうじさんは「ただいま」と言った。旅行から帰ってきたみょうじさんは、随分とすっきりした顔をしていた。旅行疲れは顔に出ているが、普段、基地で見かける時の気だるそうな顔とは違い、随分と晴れやかな顔をしていた。

「ナア、迅。俺、海に行ってきたんだよ」

みょうじさんは、橋の上から川を見ながら口を開いた。

「海に行ったことが無かったから行ってみたかったんだよ。俺、車の免許持ってないからさあ。電車を何本か乗り継ぎして行ってきたよ。こんなに電車に乗ったの初めてってくらい。行ったこともない知らない駅で降りて、そこからまた一キロくらい歩いたよ。生身で普段から歩かないと一キロでも結構キツいんだな」

みょうじさんは、彼の辿った道のりのことを思い出しながら、おれに向ってしゃべっているのか、彼の目は確かに、川の水面を見ているのだが、彼の双眸に見えているのは川ではなく、彼の見た海なのだろう。紙に走っていたみょうじさんが書いていた汚い字のことを思い出す。ナントカ駅、綺麗な砂浜で有名な観光地の最寄駅とも違う、知らない駅の名前だった。

「凄いんだな、三門の外は。ずっと波の音が聞こえる。スーパーの鮮魚コーナーあるだろ?あそこで嗅ぐ魚の匂いからちょっと生臭いのを抑えたような匂いがする。俺はさあ、魚がそんなに好きじゃないから、駅が生臭いのはフクザツだったけど、暫くしたら慣れてきてさ、案外悪くないと思ったよ。海はすごいな、夕方は西日が海面が橙になって、夜は月あかりが波にゆらゆら揺れるんだよ。朝は朝焼けで夕日とは違う焼け方をする……それを見てたら二日があっという間だった。少し先の未来を見ても、のどかな景色がずっと広がって近界なんて少しも知らない人が生活してる町だったよ。想像できるか?そういうところが、俺たちの住んでるところから、電車に乗るだけのところにあったんだ。サイレンも鳴らない、近界民も何もない世界って奴が」

みょうじさんの生活する世界は、狭い。三門市から出ることは全くと言っていいほど無く、この基地の奥の、蛍光灯の切れた部屋で少し先の未来を見ながら生活をしている。ボーダーという組織に入ってからは三門市から外に出たことが無いのだとみょうじさんは言った。現在から続くこの先の出来事と言うものを、少しもだって心配する必要が無く、心配したところで杞憂に終わる生活というものを、おれやみょうじさんにとってはずっと遠い昔の出来事で、みょうじさんにとってはそれがひどく新鮮なもののように思えたのだろう。今のおれにとってもみょうじさんが見た、近界民のことを少しも心配しなくて良いということは、同じような超感覚を持つみょうじさんの口から出てきたとは言え、少しばかり想像しづらいものであった。

「迅、俺さあ、海を見てからずっと思うんだよ。死ぬならああいうところが良いなって。俺は生きてる限りここから離れられないからさ。だから、死んだら、ああいうところに適当に骨をばらまいて欲しいよ。死後の世界があるかどうかなんて知らないけどさ、死んだ後くらい、三門から離れてああいうところで生活も悪くないって思う」
「……みょうじさんには何が視えているの?」

みょうじさんにそう、問うた。みょうじさんは、ぼんやり眺めていた川の水面から、おれの目に視線を移し、不敵な笑みを浮かべた。「おまえにも、視えてるだろ」みょうじさんは、おれに向ってそう言った。「……何も視えないよ」残念ながら、今のみょうじさんの顔からは、何も視えなかった。その意味をおれはとてもよく知している。当然、それはみょうじさんも良く知っていることで、何度も繰り返し視た、望んで視たいとは思わない未来を意味している。「……せっかちだな、迅。俺が言わずとも、じきに分かるよ」みょうじさんは、おれが視るよりも、ずいぶんと前からそれを知っていたのかもしれない。基地から出ることが殆ど無いみょうじさんが外に出たがって、晴れやかな顔をして帰ってきたあたり、時期ももう、そう遠くないのだろう。明確な時期まではおれの目では視えなかったが、みょうじさんにはもうすでに、視えているのかもしれない。

「俺は迅とあの海を見たいよ。なあ、いつになるか分からんが、今度連れてってやるよ。サイレンの音に慣れ切ったお前が、サイレンの音が鳴らない世界に戸惑ってるのを見てみたい」
「……大人なんでしょ、約束くらい守ってよ」
「さあ?俺のことをあんまり大人っぽくないって言ったのはお前だろ」

 海に散骨して欲しいと言ったみょうじさんは、その半年後に起きた第一次大規模侵攻の最中に、黒トリガーになった。生きている間この市に縛られているんだから、死後くらい自由にさせてくれと言っていた彼が最期に選んだのは、この市に留まることであった。みょうじさんが、人の姿を喪失したかたちで見つかった時には、みょうじさんの肉体の残骸は風で飛んでしまったのか、塵ひとつ残さずに消えてしまっていたので、彼が生前おれに言った海に散骨してくれという願いは残念ながら叶えられず、市から自由になりたいと言った彼は死後もまだ、黒トリガーと言う形で三門市に留まり続けている。みょうじさんの黒トリガーは、誰にも起動できなかった。本部基地が大きくなった今でさえ、未だに適合者が見つかっていない。これがもし、みょうじさんの言う死後も三門市に残るのはごめんだということの表れであるのであれば、その言っていたことと実際の行動がそぐわない様子が、それはそれでひどく彼らしいとみょうじさんを知る人であればそう言うだろう。結局、みょうじさんという人はおれを海に連れて行ってくれることは無かったし、やはり彼は最期まで彼のままであった。

四.
 ボーダーと言う組織は、玉狛支部を本部基地にしていた時に比べれば随分と大きな組織になった。あの時中学生だったおれは、気づいてみれば生前のみょうじさんの年齢に追いついてしまった。四年。第一次大規模侵攻から経った四年という歳月は、長いようで、存外短いものである。隊員の数も随分と増え、数日程度未来視がなくなって困りはしないほどに、良い方向に変わった。今の組織を見たらみょうじさんがどんな顔をするだろうとほんの少しだけ考えたが、大したリアクションも何もなく、ただ現状をそのまま受け入れるだけなのだろうと思ったら途端に詰まらなくなったので、考えるのをやめた。誕生日休暇という名目で三日ほど続く非番の日に、何をするかをぼんやり考えた時に、知らない海の話を思い出した。生前、みょうじさんがおれに向って話した、おれに見せたいと言った景色の話だった。三日間。奇遇なことに、みょうじさんが出かけてから戻るまでに費やした時間と同じだった。十九歳の時の彼がみた、おれに見せたがった景色を見に行くのならば、たぶん、今が良いのだろう。生前のみょうじさんは結局、約束を果たしてくれなかった。黒トリガーになった今くらいは約束の一つくらい果たしてくれたって罰は当たらないだろう。だから、今回この旅には、みょうじさんも連れて行くことに決めた。
 みょうじさんが生前見た海のあるぼんやりとした地名を思い出しながら、路線図を眺める。捨てられていなかった、汚くマーカーで線が引かれた四年前の路線図と、最新の路線図を横に並べながら目的地にチェックを付ける。みょうじさんは線の引き間違いが多い上に、メモ書きとして挟まっていたシートに掛かれた字も汚かったので、みょうじさんの足跡一つ追うだけのことなのにもかかわらず、ひどく苦労した。最新の路線図をみたところ、みょうじさんがおれに見せたがったあの海は、みょうじさんの話よりも一回ぶん、電車を乗り換える回数が増えていた。それは、旧弓手町駅の移転の関係からくるものだからだろう。網目のように張り巡らされた鉄道路線図を、ボールペンの先で追う。線路の接続先、街が少し大きくなるにつれて、鉄道の本数が増えるので、紙路線図の上だとどの路線を追っていたのかが、たまにわからなくなる。目を細めて路線を追い、乗り換え駅に丸印を打っていく。スマートフォンを使わずに、わざわざ時刻表と路線図を書店で買ってきて机の上に広げて経路を辿ろうと思ったのは、「旅行なんだから、こうしてやってみるのが良いんだよ」と偏屈なことを言っていたみょうじさんのことを思い出したからだった。見慣れぬ細かい路線図や、時刻表の細かい数字を目で追いながら、赤ペンでうまく乗れそうな電車の時刻に丸を付けて、目的地にたどりつくための概算時間を出す。みょうじさんの言っていた海のある駅の場所というのは、乗り継ぎに失敗しなければ片道一時間半程度で目的地にたどり着くことができるようであった。電車の時刻を調べるという慣れない行為一つするだけで、自然とため息が出る。ボタン一つ押すことで一瞬で時刻表が表示される現代文明の便利さを改めて知ることになっただけで、いちいち紙を捲り、何処を辿っていたのか分からなくなりそうな路線図を追ってみたり、目を細めて時刻表を眺めては行きと帰りの時刻を紙に書き起こすようなことに対して、みょうじさんが言った良さというものは少しも感じられなかった。みょうじさんは、一時間半程度の距離の場所に出かけることを旅行、と大袈裟に言って見せていたが、実際は、三門市から三つほど、市をまたいで海のある場所に出るだけのことで、ただ、少し遠出をするだけのことであった。持ち物の用意は、小さなリュックサック一つと、みょうじさんだった黒トリガーを、自分のトリガーホルダーの中に入れるだけで良かった。

五.
 せっかく外出するならば、天気が良ければいいと思った。玉狛支部から外を見た時に、雲一つない晴天とまではいかなかったが、青々とした空が果ての方まで広がり、少ない白い雲がぽつぽつと浮かんでいるさまも、それはそれで良いと思った。昼の電車に乗って行けば、夕方になる前には目的地にたどり着けるだろうからと、少ない荷物を持ち、三日後の夕方までには戻るとだけ伝えて、外へ出る。腰のトリガーホルダーに手を当てて、みょうじさんの黒トリガーの輪郭を指で撫でた。ねえ、みょうじさん。みょうじさんが出かけた日はどんな天気だったの、なんて口には出さずに話し掛けてみるも、このトリガーは何も返してはくれない。たぶん、生前のみょうじさんに問うたところで、「覚えてない」とだけ返ってきたように思う。みょうじさんが、どんなことを思いながら、駅までの道のりを歩いていたのかは分からない。おれはこうしてみょうじさんの足跡を辿るように歩いてはいるが、みょうじさんと同じことをしてみたところで、みょうじさんという突拍子もない、自分の理解の範囲の外にある人間のことについて想像の範囲で思いつくことなんて、たかが知れている。だから、あの人が何を思って時刻表を捲り、路線図を辿り、そして、観光地という訳でもない辺鄙な場所を目的地にして出かけようと思ったのかなぞ、少しも分からなかった。ただ分かっているのは、みょうじさんがおれに見せたがったものがそこにあるということだけである。
 三門市から、海のある駅へとたどり着くためには三回乗り換えを行う。まず、新弓手町駅から、隣の市にある主要路線駅で乗り継ぎを行い、二つ隣の市で再びローカル路線に乗り換える。最後に、ローカル路線と接続する別のローカル路線に乗り換えを行う必要があった。隣市で主要路線に乗り換えたあたりでは座席に座ることすらできなかったのに、市を一つこえ、二つ目の市に入るころには、車両の数も八両から六両に減り、一車両あたりに乗る人の姿が疎らになっていた。主要路線が少し遅延していたせいで、一つ目のローカル路線を一本見送ることとなってしまった。紙にせっかく書き出してきた、乗ろうと思った列車の乗り継ぎ列車の時刻と目的地への到着時刻はもう、意味をなさない紙切れになってしまった。次の時刻を調べようとスマートフォンを取り出そうとしたが、やめた。その時々の流れに身を任せることだって、悪くないと思ったからだった。乗り換え予定のローカル路線の始発駅のせいか、次の車両はすでに駅に着いていた。発車を待つ三両編成の二車両目の中央座席に腰を下ろす。持ってきた小さなリュックサックは床に置いた。車内アナウンスと、駅構内に設置されたアナログの時計から、次の出発時刻は二十分後であることを知った。案外、スマートフォンの画面を見ずとも何とかなるものだと思いながら、電車の発車を待つ。電車の発車時刻が残り、三分を切っても、この電車に乗る人の姿は見えなかった。結局、発車時刻になっても人は来ず、実質貸し切り列車という状態で電車が動き出した。電車の車内アナウンスを聞きながら、電車に揺られる。街の景色は、のどかな住宅街から、青々とした畑が延々と続く風景へと変わりつつあった。
 最後の乗り換え駅の名前が呼ばれ、電車を降りる。一つ前の乗換駅よりもずっと小さく、古い駅だった。木造の駅舎はところどころ、白いペンキが剥がれて本来の木の色が露出している。駅から見える景色は人の家の一つも見当たらないほどにだだっ広い畑ばかりで、客の姿どころか、駅員の姿一つ無い。券売機の代わりに整理券のボックスが改札代わりの扉の外にぽつんと置かれている。駅で整理券を取って、電車を降りる時に金を払う形式なのだろう。この駅は随分と昔から、無人駅として機能しているのか、<有事の際はXX駅へお電話ください>という張り紙があった。張り紙を止める画鋲はさび付いていて、鋲が触れている紙の部分が薄茶色に変色している。時刻表を見れば、この駅に着く数分前に前の電車が行ってしまっていた。みょうじさんの向かった海側へと向かう電車が来るまでには一時間程度待たなければならないらしい。話し相手すらいないこの寂しい駅の古びたベンチに腰を下ろし、腰のホルダーに手を当てる。黒いトリガーはまだ、そこにしっかりと収まっていた。暇つぶしがてらにトリガーを起動させようとしてみるも、このトリガーは矢張り、うんともすんとも言わない。みょうじさんはこの駅で何を思ったのだろう。今のおれと同じように、乗り継ぎのタイミングが悪くてこの駅舎で暇つぶしの方法を考えていたのか、それとも運よく乗り継ぎの列車にすぐに乗れて、みょうじさんの見た海のあるところまですぐに行けたのか。みょうじさんだった黒トリガーを手で遊びながら、古びた掲示物を眺める。みょうじさんがこの駅にやってきたときには既に、この掲示物らは存在したのだろうか、なんてくだらないことを考えた。

六.
 目的地にたどり着いたときには、天辺にあった太陽は、西の方へと傾いていた。本当ならば、もう少し早くに着く予定だったのに、電車を乗り過ごしたりしているうちに思ったより遅い時間に着いてしまったように思う。電車を降りてすぐに湿った風が吹く。風に乗って、磯の匂いが鼻腔をくすぐった。駅の改札を抜け、古びた案内板を見る。みょうじさんの言っていた海というのは、この駅から、線路に沿って一キロ程度歩いた先にある港のことなのだろうと推察して、そちらに向って歩き始めた。
 ここは、静かだった。車道は通っているが、車は殆ど通らない。歩いている人の姿も、まったくと言っていいほど見えず、線路沿いに時折、過去にちいさな商店が出ていただろうことを匂わせるような、無人になって長い月日が経っているように見える店舗の跡があった。漸くたどり着いた港も、船は一隻も無く、船着き場として過去に使われていただろう形跡だけがそこにあった。とうぜん、人の姿はどこにも見えなかったし、この場所を通りかかる車の姿も、みえなかった。この寂れた港の近くには店一つなく、おれが一人と、港の形を残した海のすがただけが、ここにはあった。桟橋の一番端まで歩いて、地面にそのまま腰を下ろす。潮風が吹くたびに、少しばかり伸びた髪の毛が風に揺れるのが煩わしかった。西日が、海面から顔を半分だけ出して、空と海面の色を橙に染め、穏やかな波の上に、橙色の残滓が散らばっている。ゆらゆらと形を変える光の粒を眺めながら、腰のホルダーからトリガーを出した。おれが起動できない黒トリガーを空に掲げるように持つ。「おれにこれを見せたかったの?」その問いに答える人間は、誰も居ない。このトリガーも、口を持ち合わせて居ないので当然、喋ることはしない。ただ、そこにあるだけだった。たしかに、この場所には人が通りかからないのだから、おれには今の時点から先の未来を知ることは出来ない。サイレンだっていつなるかもわからないのだが、そもそも、ここにはサイレンの音を響かせるためのスピーカーは一機だって存在しない。一定の間隔で穏やかに打ち寄せては桟橋に白波をつくる波の音が存在するだけの世界である。みょうじさんにとってはこの場所が、彼にとっての生きる場所から一番遠く、一番想像がしづらかった世界だったのかもしれない。打ち寄せる波の音は聞こえても、近界からの足音なぞ少しも聞こえない、三門市では経験することは難しいだろう、市外の生活、みょうじさんの言葉を使って言うのであれば、たしかにここは、電車一本で行けるところにある知らない世界なのだろう。

七.
 みょうじさんは丸二日、あの海の場所に居たと言っていたが、おれにはあの場所で二日間も過ごすのは難しかったので、その日のうちに玉狛支部へと帰ることにした。帰りの電車は、乗り継ぎに失敗することなく、うまく電車に乗れたので、終電の二本前の電車で市内にたどり着くことができた。みょうじさんは二日も、あの場所で自分の死期を悟りながら何を思っていたのかは、わからない。おれは、みょうじさんではないし、みょうじさんはおれが思う以上に突拍子もない考え方をするし、何より彼は天邪鬼なので、言っていることと行動は常に、伴って居ないのだからわかりようがない。自分で、三門市から離れてあの海のあたりに行きたいと言っていたくせに、結局三門市にとどまることを選んでいることも、自分で残留することを選んだくせに、トリガーを起動させることを誰にも許さないという振る舞いも、みょうじさんらしいと言えば彼らしいのであるが、みょうじさんの足跡をたどるうえで、おれに分かったことは、みょうじさんと同じ十九歳になったのにも関わらず、みょうじさんの考えることは全く理解できないということだけであった。だから、みょうじさんがおれに見せたいと言ったのが、みょうじさんの言う知らない世界だけだったのかは、おれにもわからなかった。みょうじさんのことだからもしかしたら、その言葉の通りなのかもしれないし、その言葉以外の所に本質があったのかもしれない。ホルダーに入れっぱなしになっていた、みょうじさんのトリガーを取り出した。手に持ってみたところで、当然何も起こらなかった。「せっかく海に連れてったんだからさあ、一回くらい起動させてくれても良いんじゃないの、みょうじさん」そう、自然と口から出てきたのが可笑しくて、笑ってしまった。みょうじさんの黒いトリガーには、旅行先から連れて帰ってきてしまったうっすらとした海の香りだけが残っている。
2019-11-22